07. いつか



会議室に淀む、なんとも言い難い空気。
それは唯一人によってもたらされたものだったが、誰もそのことについて指摘する者はいない。
誰もが己の身を惜しむために――。
その空気から人々が解放されたのは、会議終了後。
それを撒き散らしていた張本人が室外へと出て行った後だった。
自然と其処彼処から安堵のため息が零れる。
誰の胸中にも普段は怒らない人間を怒らすと恐い、という思いが浮んでいた。
そして、会議に参加していた人々もバラバラと自分の仕事へと戻っていき―― 最後に二人の人間が会議室に残ったのだった。

「陛下。いったい何をして、あれほどレキシスを怒らせたのですか?」
遠慮の欠片もなくデュースはフィルズに問い掛けた。
その内容とは裏腹な、丁寧な言葉遣いにフィルズが顔をしかめる。
「―― この場には俺達しかいない。取り繕う必要もないだろう? おまえにいつまでもその堅苦しい言葉で話されていると、こっちが疲れる」
嘆息するフィルズに、デュースが肩を竦めた。
「まあそうだが。ここはおまえの室じゃないからな」
どこに耳があってもおかしくない。
安易にそう示したデュースに、フィルズは視線を彷徨わせる。
「場所を変えよう」
立ち上がった彼に、デュースは無言で従った。



そうして二人はフィルズの執務室に移動し――。
「それで今度は何があった? おまえがミリエク領から返ってきた後辺りからだよな。ずいぶんと長く続いているみたいだが――」
どうせ何かやらかしたのだろう?
興味深げな色を瞳に浮べ、デュースはどっしりと簡易休憩場所の長椅子に腰掛ける。
その向かいに腰掛けたフィルズは困り顔で肩を竦め、
「したというか、未遂というべきか。誤解を招いたのは確かだ。しかも、レシーは俺の話を聞く気がまったくない。これでは誤解を解きようもない」
なんとも情けない顔で弱々しく笑った。

フィルズの言葉をしばらく吟味した後、デュースは疑わしげに彼を見る。
「いずれやるだろうとは思っていたが、もう浮気したのか。吹っ掛けといてなんだが、レキシスも可哀相に……。怒るのも当たり前だな。愛想つかされてないだけよかったじゃないか」
デュースの聞き捨てならない台詞に、フィルズの眉間に皺が寄った。
「おまえが俺をどう思っているか、よくわかった。だがな、俺は未遂だといっただろうが。あれは不可抗力だ」
「……その言葉が素直に信じられるような行状は、おまえの過去にないぞ」
ぼそりと呟かれた言葉が、フィルズの胸にグサッと刺さる。
そう。
その言葉は事実なだけに否定できない。
だが――。
「過去は過去。現在は現在。俺は潔白だ」
今回に関しては、それが真実なのだからそれしか言いようがなかった。
たとえ信じてもらえないとしても、だ。

冤罪にかけられた罪人が無実を訴えるように、必死に己の無実を主張するフィルズを、デュースは呆れたように見る。
「俺に弁明してもしょうがないだろ。―― まあ冗談はさて置き、レキシスが怒っているのはそういうことじゃないと思うぞ?」
「は?」
フィルズは間抜け面をさらして、思わずそう訊き返していた。
そんな彼に対し、珍しくからかうこともせずにデュースは表情を引き締め、真面目な顔を作る。
「これは俺の推測でしかないから滅多なことは言えないが、たぶん違う」
その言葉にフィルズの頭の中は疑問符だらけになった。

恋人が浮気したから怒る。
普通はそういうものだろう。
今回、誤解だとはいえフィルズが浮気したということになってしまっている。
だから、レキシスが怒ったのだろうと考えた。
なのに、違う?
では、いったいに何にあれほど彼は怒っているのか?

別の要因が何かあっただろうかと、デュースの存在も忘れてフィルズは己の思考に沈んだ。
その様子にデュースは苦笑し、しばらく一人にさせておこうと立ち上がる。
「とにかく早く仲直りしろ。周りが迷惑だ」
普段のレキシスなら、こうもあからさまに私情を公務の場にまで持ち込まない。
今回それが出来ていないのは、たぶん押さえ切れないほどの葛藤が彼の中にあるということだ。
普段の穏やかな笑顔の仮面を被った彼しか知らない人々には、間接的とはいえあの空気にさらされるのはきついだろう。
このままでは仕事に支障が出る。
「俺だって出来るものならしたいさ。だが、レシーに取りつく島がない」
半ば上の空で言葉を返すフィルズに、
「わかった。俺が機会を作ってやるから、絶対に話し合え。じゃあな」
デュースはそれだけ言うと室から出て行った。

その足でデュースはレキシスがいるであろう彼の執務室へ向かった。
話し合えばたぶん解決するはず。
回廊を歩きながら、彼は思考を巡らす。
レキシスが何を怒っているか想像はついていた。だからこそ、彼の口からはため息が零れる。
日常に支障が出始めないためにも、せめて話し合いの場だけはデュースが用意しなければならない。だが、自分が関わるのはそこまでだ。
恋人同士の会話にまで首を突っ込む野暮、もとい面倒なことをする気はデュースにない。
損な立場の自分を嘆きつつも、彼はフィルズの幸運を祈ったのだった。



「それで、私に話したいこととは?」
室内にはフィルズとレキシスの二人だけ。
静かな沈黙を破り、レキシスはそう問い掛けた。
まっすぐにフィルズを見つめる瞳に怒りの色はないものの、静かなそれが逆に恐い。
「いや、その……」
レキシスから発せられる威圧感にフィルズはここにきて往生際悪く言葉を濁しかけたが、彼の無言の促しに耐えかねて重い口を開く。
「誤解なんだ」
自分は悪くないはずだ。
堂々と身の潔白を宣言してもいいはずなのに、フィルズにはその一言を口にするのがやっとだった。
「何がですか? あなたがミリエク領の領主の用意した娘を抱いたことですか? その事なら気にしていないとは言いませんが、怒ってはいませんよ」

そう言うレキシスの顔にも声にも、言葉通り怒りの色はない。
デュースの予想は当たっていたということか。
だが、やはり彼は確かにフィルズに対して怒っている事実がある。
それはミリエク領から帰って来てからだった。
いったいレキシスは何を怒っているのか?
フィルズには予想もつかず、内心首を傾げるばかりだ。
そもそも、その娘を抱いたということ自体が誤解なのだが……。

「元々女好きのあなたに据え膳まで食うなと言うのは酷でしょう。ですから、割り切ったつもりです。あなた相手にそれはもう仕方ないとしか言いようがありません。ですが――」
そこでレキシスは言葉を区切り、フィルズを凍えるような冷たい瞳で見た。
「私の用意した据え膳は食わずに、ミリエク領の業突張りの用意した据え膳は食うのですね。私はあなたの目に適う者達を選んだつもりでしたのに、あの業突張りの選んだ者は良くて、私が選んだ者は駄目とは――」
とつとつと語られる言葉は、フィルズの耳を右から左へと流れていく。
「………」
彼は言葉もなく唖然とした様子でレキシスを見ていた。

いったいどこから指摘したらいいのか。
フィルズはこめかみを揉み解し、視線を泳がせる。
レキシスの用意した据え膳。
それはたぶん彼への本気の想いを自覚した頃のことだ。
好きな相手にその他の者を宛がわれてうれしいはずもない。
いくら美人で好みに適っていようと、あの時はそれどころではなかった。というか、表面には出さなかったが結構傷付いた。
そして今回。
確かに領主が用意した娘は寝室に入り込んだ。
だが、レキシスのことが頭にあって、流されることもできずに相手を追い出した。
それが真実なのだ。

「それで他に私に言いたいことは?」
ないのでしたら、退出させていただきます。
言葉に出さずとも、レキシスの態度がそう物語っていた。
フィルズはどこから話すべきか少し考えた後、口を開く。
「デュースといい、レキシスといい、おまえ達はいったい俺をなんだと思っている。そこまで俺は節操無しか? そもそも今はおまえという相手がいるというのに、なぜ他の者の相手をする必要がある?」
苦虫を噛み潰したような表情で苦言を呈す彼を、相変わらず冷めた目でレキシスは見つめていた。
「ですから、先程も言いましたように、あなたは女性が好きでしょう?」
「まあな。それは否定しない」
渋々といった感じでフィルズは頷いた。

ここで否定しても、過去を知っているレキシスには無意味だ。
事実、今までフィルズの恋愛対象はすべて女性だった。
レキシスがそういう対象になったということ自体が、今までの彼にとっては例外であり、特別だということ。それは最初で最後の例外だ。
「レキシスがその何倍も好きだ。他の誰とも比べようがないほど大切なんだ」
「……私の用意した据え膳は食わないのにですか?」
どことなく恨みがまし気なレキシスの声に、フィルズは深々とため息をついた。
「変な割り切り方をするな。おまえなら好きな奴から好みではあっても別の相手を紹介されて、ホイホイと喜んで付き合うか?」
「……いいえ。ですが――」
「もう据え膳の話から離れろ」
まだ言い足りないのか。
物問いたげなレキシスの言葉を、フィルズは遮った。
「そもそも俺は潔白だ。今回も食ってない。おまえと付き合う前なら食っていたかもしれないが、もうおまえ以外とはする気にならない。それぐらい俺は本気だって、いい加減にわかってくれ。……でなければ、この俺が結婚を切り出すか」
語尾は囁きに近く、レキシスの耳には届かない。だが、これこそがフィルズの正直な気持ちだった。

レキシスは沈黙し、まじまじと彼を見つめる。
その視線を真向から受け止め、
「レキシス。俺と結婚しないか?」
フィルズは真面目な表情で訊ねた。
「それは……。前にも言いましたが――」
「ああ、聞いた。だが、結婚すればこういうことも減る。こんな妙な誤解を招かないで済む」
彼の言葉を遮り、フィルズはそう告げて自嘲した。
「おまえはまともに妬いてもくれないみたいだがな」
ぼそりと呟かれた言葉に、レキシスは心外だとでも言いたげに眉をひそめる。
「私だって妬くことはありますよ。ただ、それでも長い付き合いですから、あなたがそういう面にだらしないことぐらい十分過ぎるほど知っています」
「―― 信用ないんだな」
「そういう面では、まったく。過去の惨状は山ほど知っていますから」
繕うこともせずにすっぱり切られて、フィルズは唸った。

過去は消しようがない。
レキシスの言うように、彼には自分の過去の行いを十分過ぎるほど知られてしまっている。けして、誠実ではなかった自分を……。
だから、誤魔化しも否定もできない。
だが。
「話を戻すが、我が帝国は一夫一妻制。それは皇帝だろうと同じだ。俺が宣言したことだから知っているだろう? 簡単に言ってしまえば結婚は誓い一つ書類一枚によるものだが、伴侶ある者に堂々と浮気を勧める人間はいなくなる。ある程度の抑制にはなるはずだ」
「ええ、そうでしょうね」
まるで他人事のような返事に、フィルズが顔をしかめた。
「そんなに俺と結婚したくないか?」
「そんなことは一言も言っていないでしょう」
間髪入れずに返された否定に、フィルズは内心安堵したのだが。
「ですが、今でなくても良いでしょう?」

「……おまえはいつなら良いと言うんだ?」
「そうですね。あなたが王を辞する時、もし、まだ私と結婚する気があるというのなら、私は喜んであなたの伴侶になりましょう」
真顔で告げられた言葉に、フィルズが呆れ顔になった。
「気の長い話だな」
フィルズが皇帝を辞すると、着任時に取り決めた月日はまだ数年先だ。
レキシスは曖昧に微笑む。
「そうでしょうか? きっとあっという間ですよ。やっと立ち直りかけたこの国をよりいっそう良い国に。それを支える後継を育てることに。私達が費やす時間はけして長くない」
やんわりと告げられた真摯な言葉に、
「おまえは俺より国の方が大事なんだな」
ついついフィルズの口からいじけた言葉が零れ落ちた。

フィルズを皇帝へと押し上げた、その大きな一因を作ったのはレキシスだ。
彼も生まれ育ったこの地を愛してはいるが、レキシスは彼以上に過去の帝国のあり方を憂え、ついには帝国を作り変えるよう手立てした。
「あなたが妬いてくれるのはうれしいですが、誤解しないでくださいね。私が嫉妬深いと言ったことを覚えていますか? あなたは疑っていましたが、それは事実です。私はね、あなたがわたし一人のものになる機会を待っているのですよ。今の、皇帝であるあなたは国のものですから」
驚きに目を見開いたフィルズの顔をレキシスがおかしげに見つめる。
「皇帝を辞したら、あなたは旅に出るのでしょう? その時には私も一緒に行きますから、二人で世界を見て回りましょう。だから、あなたを独占することはそれまでお預けです」

レキシスはフィルズの顎を取り、そっと顔を近づけた。
フィルズは身動きできないまま、目を瞑ることもせずに、間近で判別できないぐらい近づいたレキシスの顔を見つめ続ける。
重なった唇の感触。
触れるだけで離れていった唇を追えば、どことなく色を含んだレキシスの艶やかな笑みに出会し、彼は目をそらした。
「フィルズ、覚悟しておいてくださいね」
クスクスと機嫌良さげに笑いながら出て行ったレキシスの背を無言で見送り、フィルズは取り残された室の中を落ち着かない様子で見回し、無意識に詰めていた息に気づいて吐き出したのだった。



今はまだ『いつか』に続く道の途中。

二人のこれからはまだ先に――。



<完>





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2008/03/12
修正 2012/01/15



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