02. 蒼月 |
年に一度の蒼月の日。 私室でフィルズとレキシスは皇帝とその側近としてではなく、長年の友として二人で酒を飲んでいたのだが――。 「フィルズ。あなた、今、私に何をしたかわかっていますか?」 呆れたような、この状況にしてはひどく静かな声でレキシスが問う。 「まあ、なんとなくは……」 自分でも呆れるほど曖昧な言葉を返し、フィルズは困惑顔で彼を見る。 「……わかっていませんね」 しばらく見つめ合った後、レキシスが深くため息をつき、額に手を当てた。 「酔った勢いの単なる事故。そういうことにしておきましょう。お互いにその方が平和です。忘れましょう」 レキシスの提案は、当然のことと言えた。 その方が今後付き合っていく上で、気まずくならないで済む。 理性ではわかっていたが、彼の言葉に動揺しているらしき自分に気づき、フィルズは内心かなり驚いた。 無かったことにはしたくない。 ザルの自分が酔うはずのない酒に酔ったのか。 それとも蒼い月の光のみを明かりとした、この部屋が醸し出す雰囲気に酔ったのか。 心がそう強く主張していた。 フィルズが自分の想いに戸惑っている間に、レキシスは無言で長椅子から立ち上がる。そのまま部屋から出て行こうと足を進めかけた彼の腕を、フィルズはとっさに掴んで引き戻した。 力が強かったのか、勢いで今まで座っていた長椅子の上に倒れこんだレキシスが驚いた表情で彼の顔を見上げる。 「いきなり何をするのですか!」 レキシスが批難の声を上げるのも当然で、彼は動きを封じられたまま下からフィルズを睨む。 そんな彼を言葉も無く、フィルズは見下ろした。 ただ、このままレキシスを行かせたくなかった。 無かったことにしたくなかった。 単純に理由を述べるなら、それだけだ。 それだけなのだが――。 自分の気持ちも掴めずに、フィルズは困惑していた。 そこに再び、レキシスが批難の声を上げる。 「ふざけるのもいい加減にしてください」 「いや、ふざけてはいないんだが……」 自分でもはっきりしない気持ちに、フィルズの口から出る言葉も歯切れが悪い。 「それなら手を離して私の上から退いてください。重いし、邪魔です」 フィルズに押し倒されている。 そんな状態でもレキシスの凛とした口調に変わりはない。それがフィルズにはなんとなく憎らしかった。 「おまえ、まったく動揺してないな」 拘束する力は抜かずに意地悪く言えば、 「あなたの悪ふざけにいちいち動揺していられるほど柔な神経は、遠い昔に置いてきましたから」 しれっとした言葉が返ってきて、それがフィルズの癪に障った。 そのしれっとした、動揺の欠片もない姿を壊したい。 胸の内からたとえようもない焦燥感が溢れ出す。 先程は無意識に、今度は自らの意思で。 フィルズはレキシスに口付けた。 探るように、確かめるように、深く。 同性に口付けている。 けれど、嫌悪感など微塵も無く―― あるのは自然と湧き出した胸の内の不可思議な温かさだけだ。 それがフィルズの苛立ちを宥めていく。 捕われるように気が済むまで口付けてから彼はレキシスを解放し、その顔を見て呆然とした。 ゆっくりと身体を起こした彼の、その頬を流れ落ちた一滴の涙。 そして、凪いだような静かな瞳。 「……あなたはわかっていない」 小さな小さな呟きが先程まで口付けていた唇から零れ、レキシスの瞳に一瞬だけ波紋が広がった。 それは一体、どんな感情を映していたのか。 フィルズが読み取る前に、すべてかき消えてしまった。 ただそこに残ったのは、普段とは様子の違う彼の姿だけだ。 「まだ、仕事が残っていますので失礼します」 身動き出来ずに固まったフィルズを冷えた瞳でいちべつし、嘘だとわかる言葉をいつもよりも硬い声で告げ、レキシスは身を翻した。 パタンと軽い音を立て扉が閉まり、そこでフィルズはようやく正気に返る。 ぐったりと長椅子にもたれかかり、天井を仰ぎ、片手で顔を覆った。口からは深く長い息が吐き出され、小さな掠れた呟きが零れ落ちる。 「……あれは反則だ」 レキシスの言う通り、フィルズはわかっていなかった。 一度目は無意識に。 二度目はただ彼の平然とした態度が癇に障って。 それだけでそれ以上の理由など無かったはずなのに――。 まるで硝子細工のように。 簡単に壊れてしまうのでないかと。 普段はまったく感じさせない、レキシスの脆い一面を見てしまった瞬間に、フィルズは別の答えにたどり着いてしまった。 いつから? そう問われても答えなど出ない。 それは長い付き合いの中で積もっていたものだ。今の関係を続ける上で、不要だったモノ。 だから、ずっと見ない振り、知らない振りで無意識に蓋をしていた。 だというのに、あの瞬間、それらすべてを突き付けられた。 気づいてしまったなら、もう後戻りは出来ない。 軽くも小さくもない。 取り返しのつかないほど、その想いは成長していたのだから。 すべてはレキシスの顔が月明かりに照らされた、あの瞬間に――。 「どうしてくれるんだ、まったく」 自業自得。 ぼやきながら頭に浮んだ言葉に、フィルズは苦く笑った。 蒼月は静かに天に浮ぶ。 すべてを見つめ、すべてを受け流す。 夜の静寂のすべてを。 |
************************************************************* 2008/02/16
加筆修正 2012/01/15 |