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眠りの底に沈んでいた意識が夜明けを感じて浮上する。 ゆっくりと眠りを邪魔しないように髪を梳く指の感触。 まだ重いまぶたをフィルズは意志の力でゆっくりと押し開いた。 薄暗い室内で腕の先をたどり、上半身を起こしてこちらを見つめていたレキシスの瞳と出会う。 「おはようございます」 いつもと変わらない挨拶。 それなのにフィルズはそれに言葉を返すことが出来なかった。 「あなたは煽るだけ煽って、本当によく眠っていましたね」 静かな室内に響く、レキシスの声。 フィルズは誤魔化すように笑みを浮かべたが、その瞳はあらぬ方に泳いでいた。 まさかあれからずっと起きていた、とか……? フィルズも煽るだけ煽って放り出した自覚はある。 そうだというのに彼が自然に目覚めるまで律儀に待っていたレキシスの忍耐力に感謝すべきか、嘆くべきか。 現実逃避したものの、寝起きに見たレキシスの瞳に浮かぶ感情から逃れることなど出来そうにない。 「休息は十分取れましたね?」 その言葉は問いの形を借りた、断定だった。 奥底に燻るような熱を秘めた瞳。 仄暗い情欲の色。 それはレキシスが情事の時だけフィルズに見せる、彼を求める偽りのない素直な感情だった。 だが、それが表に出ている、ということは――。 「レシー、俺は今日も仕事……」 この言葉で思い止まってくれと願いつつ、フィルズは彼の顔を見つめた。 昨夜の名残もまだ身体に響いている。 この程度なら、おとなしく机上仕事をする分には支障をきたすほどでもないのだが――。 「ええ。知っていますよ」 軽やかに答えたレキシスの顔には笑みが浮かんでいた。 大輪の花のような、艶やかな笑みが。 それを見て、フィルズの奥がズクリと疼く。 だが、ここでそれに流されればどうなるか。 警鐘を鳴らす理性に従ってフィルズが口を開く前に、それを遮るようにレキシスが更に言葉を続ける。 「今日の仕事に、さほど重要な物が含まれていないことも。どうしても陛下が出席する必要がある物はひとつも含まれていないことも知っています。……私でもある程度は処理することが可能な案件ばかりですよ」 だから、今は付き合ってください。 そう遠回しに言われ、フィルズは彼の誘いを拒絶することに躊躇した。 今日は、レキシスの休日だ。 それなのに彼はフィルズの代わりに仕事をすると言う。 フィルズとレキシスが同じ日に休みを取ることはない。 皇帝であるフィルズが不在時に何かあった時、しっかりと対処できるのは今の所レキシスしかいないため、同じ日に休日を取ることは不可能だった。 いつもなら絶対に仕事を疎かにするような発言をするレキシスではない。 それは、時にフィルズよりも仕事の方が大事なのではないかと思えるほど。 どれほど重要ではなさそうな案件だろうと、疎かにし巡り巡って国民にその付けを払わせるわけにはいかないからと、フィルズよりもよほどそのことに神経を使っているレキシスがこんな発言をすること自体、青天の霹靂だった。 「フィルズ、愛しています」 囁きと共に落ちてきた唇。 それは触れるだけすぐに離れ、間近で二人は見つめ合う。 レキシスは強引に押し切ろうとはせずに、迷っているフィルズの答えを無言で待っていた。 仕事より自分の欲を優先させた、レキシスの初めての我が侭。 フィルズは小さく息を吐き出し、足掻くことを諦めた。 けして望んでいないわけではなく、求められることに胸の内は喜びに疼く。 けれど、その片隅には仕事を放り出すことへ多少の罪悪感があり、それを完全に拭うことは出来なかった。 それでも、フィルズは彼を拒むことが出来ない。 自らの欲も手伝って、フィルズは了承の証に今度は自分からレキシスの唇に口付けたのだった。 いつのまにか完全に夜は明けていた。 窓を覆った布の隙間から、微かに朝日が入り込んでいる。 「……流されて、甘い顔をした俺が馬鹿だった」 やっと息を整えて、素面に戻ったフィルズがまだ身を横たえたまま呻いた。 「私は先に忠告しましたよ。私を甘やかし過ぎると、つけ上がりますよ、と。それを受け入れ、いっぱいいっぱいの所をさらに煽ってくれたのはどこのどなたでしょうね? それでも。いつも以上に感じていましたね、フィルズ」 隣に横になりクスクス笑うレキシスを、フィルズは睨みつけた。だが、その頬が赤く染まっていてはなんの威力もない。 「……俺の言葉、忘れていないだろうな」 まっすぐにレキシスを見つめ、フィルズは言った。 「おまえだから俺は受け入れた。もう二度とは言わないからな」 そうして言いたいことだけ言って、レキシスに背を向けた。 「ええ」 その背を引き寄せ、そのまま抱き締めたレキシスが穏やかな顔で問い掛ける。 「あなたの気持ちを少しでも疑った、私を許してくれますか?」 「許すも何も、俺の答えは出した後だ」 その身を以ってレキシスを受け入れた。 それが何よりの答えだった。 「……そうですね。あなたはいつも私に答えを示してくれていた。フィルズ、私は今、すごく幸せですよ」 腕の中でフィルズが小さく身動いだ。 「愛しています。一生を共にする伴侶として、私と結婚してくれませんか?」 くるりと反転して、レキシスの方を向いたフィルズの顔は驚きに満ちていた。 フィルズが結婚を持ち出した時、拒みはしなかったものの、即答をさけたのはレキシスの方だ。 彼の返答により、自分が生涯の伴侶となるのは、あと数年は先になる。 そのはずだったのだが――。 「……いいのか?」 簡潔な問いは、色々な意味を含んだ言葉でもあった。 「ええ。本当にお待たせしました、と言わなければいけませんね。すべての覚悟が出来たわけではありませんけれど、それでももう待つのは止めます」 その言葉にレキシスもフィルズが皇帝を辞する数年後を、ずっと待っていたことを知る。 「所詮、紙切れ一枚の形式的な物かもしれません。ですが、あなたを私のモノだと誰にでもわかる形で知らしめたい、欲の方が勝ってしまいました」 苦笑したレキシスは、表情を改め、真剣な顔で再度同じことを問う。 「フィルズ、私と結婚してくれますか?」 フィルズは穏やかな表情で、頷いた。 「ああ。おまえを生涯ただ一人の伴侶として誓う」 二人顔を見合わせ、穏やかな気持ちで微笑みあう。 「愛している」 「愛しています」 その言葉以上にこの想いを伝える言葉は見つからないけれど、お互いの胸に宿る想いは何度口にしても、空になることはないだろう。
今、二人はあの時に約束した『いつか』にやっと手が届いた。
けれど、ここは一つの終着点に過ぎない。 ここからまた始まるのだから――。 <完> |
************************************************************* 2009/08/13
修正 2012/01/15 |