天の審判者 <56>



「これで君に頼んだことはすべて終わったけど、どうする?」
スーリャは返答に困って、首を傾げた。
「何が?」
ルー・ディナが苦笑して、問い直した。
「君はこれからどうしたい? 元の世界に帰る? それともカイナに残る?」
選択権は君にある。
ルー・ディナはいちおう訊ねたが、スーリャの答えを知っていた。その表情に複雑な感情が浮かんでいる。
スーリャの目が驚きに見開かれ、じわりじわりと問いの意味を理解するうちに、その顔に笑みが浮んでいく。
「カイナに残れるのなら、俺はこの世界に残りたい。シリスの元に帰るって、そう約束してきたんだ」
笑顔のスーリャに、ルー・ディナの顔がいっそう複雑そうに歪む。そして、ためらいをみせながら言葉を付け足した。

「そう言うと思った。でも、それには一つ条件がある」

「……条件?」
訝しげに訊き返すと、ルー・ディナが真剣な表情で頷いた。
「君がカイナに残る条件。まず君はもう二度と元の世界に戻ることはできない。そして、元の世界での君の存在は完全に抹消される。あの世界で君は初めからいなかったことになる。それでもいい? 君は故郷を失うことになる」
ほんのわずかな反応すらも見逃すまいとじっと顔を見つめてくるルー・ディナを、スーリャは静かに見つめ返した。
「俺の記憶は?」
すべてを終えてもいまだに戻ってきていない記憶。
ルー・ディナの言葉は、今の状態のスーリャには漠然としていてよくわからない。
「期限が満たされた今なら、君が望めばすぐにでも戻るだろうけど……」
本当にそれでいいの? 忘れたままの方がいいかもしれないよ?
言葉をにごらせたルー・ディナの顔は、そう無言で問い掛けているようだった。

「俺が覚えている限り、すべて無かったことにはならないし、たとえ二度と戻れなくてもあの世界が俺の故郷であることに変わりはないだろ? だからいいんだ。俺は覚えていたい。覚えていなければ駄目なんだ」
自分は唯一を選び取った。それによって切り捨ててしまう者達を忘れていた方が、確かに楽かもしれない。
思い出は時にやさしく残酷で―― 知らなければ、それに惑わされることもない。
でも、それは自分が今まで生きてきた証なのだ。取り戻せるのなら、これ以上失っていたくない。

唐突に頭の中で記憶があふれ出し、あるべき場所にしっくりと収まっていく。
嵐のような時が過ぎ去り、スーリャはほっと息を吐き出した。そして、己の中で過ぎた時の流れを実感する。
あの時は受け入れられなかった物事が、自分の中で整理され、過去として収まっている。そのことがとても不思議だった。

「決意は変わらない?」
念を押すように訊ねたルー・ディナに、スーリャは頷く。
「親不孝だと、自分勝手だとわかってる。でも、俺はあの世界の家族よりシリスを選ぶ。大切な、たったひとりの存在なんだ」
彼の傍に帰りたい。その傍で生きたい。
泣き笑いのような表情になりながらも、スーリャははっきりと告げる。
「たとえあの人達が俺を忘れても、俺が覚えてる。血の繋がりなんてまったくなかった俺を、そんなことおくびにも出さず大切に育ててくれた俺の家族を。その事実を受け入れるためにずいぶん回り道をしたけど、もう忘れたりなんてしない。忘れようなんてしない。たとえ彼らと血が繋がってなくても、彼らは俺の家族だ」

脳裏に順々に浮んでくる顔。
父と、母と、弟。
スーリャは四人家族だった。両親共働きで忙しい人達だったけれど、それでも十分愛され大切に育てられたと思っている。
なんの疑いもなく、家族だと信じていた。けれど、それは唐突に覆される。
スーリャが十八の誕生日を迎えたその日、偶然知った真実によって――。
血の繋がりがない。
言葉にすれば、ただそれだけのこと。けれど、それは信じていたものを根底から覆すような衝撃をスーリャに与えた。

本当に大切なものは形ではなく、その心のありようだったのに……。
積み重ねてきた日々だったはずなのに――。

その時のスーリャにはそれを素直に受け入れることができなかった。
今までの自分をすべて否定された気がして。その思いに囚われ、そこから逃げ出した。記憶を消す、という手段をまで取って。

スーリャの決意の固さを感じ取り、ルー・ディナは重く息を吐き出した。
「ごめんね」
小さく呟かれた謝罪にスーリャは瞬き、曖昧に笑んだ。
「もし、いつかそのことを後悔したとしても、それは誰のせいでもない。俺が選んだことだ」
だから、気にしないで良いと告げるスーリャに、今度はルー・ディナの方が泣き笑いのような表情になる。
「たぶん俺は後悔なんてしない。シリスの傍に居られるなら、俺は幸せだよ」
スーリャの顔に浮かんだのは鮮やかな笑み。彼は気づいていないが、蒼い瞳から愛しさがあふれ、艶を帯びている。
ルー・ディナは苦笑し、肩を竦めた。
「……ごちそうさま」
「お粗末さま」
ふたり顔を見合わせ、噴出したのだった。



「それじゃあ、最後にあと一つ。カイナに残ると言った君の願いを、僕のできる範囲で一つだけ叶えることができるんだ。迷惑をかけたお礼代わりだと思って受け取って欲しいんだけど、君は何を望む?」
そう唐突に言われ、予想もしていなかった言葉にスーリャは目を丸くした。
いきなり願いと言われても、急には何も浮ばない。
スーリャは首を捻り、眉間に皺を寄せて考え込む。そんな彼の様子を見つつ、ルー・ディナが似つかわしくないニヤリとした笑みを浮かべて口を開く。

「たとえば君と王さまとの間に子供が欲しい、とか」

人の悪い笑みを浮かべるその顔を見て、スーリャは言葉もなく口をパクパクさせた。その顔色が赤くなったり青くなったりと忙しい。
その様子をルー・ディナがおかしそうに見ていた。

子供ができたキリアを羨ましいと思った。
シリスとの間に確かな証が欲しいとも思った。
思ったことはあるのだが――。

「俺、男なんだけど」

そんなことは絶対に無理だろとスーリャが反論すれば、
「君が女性体、または両性体になれば可能なことだよ」
ルー・ディナがあっさりとその考えを否定した。まったく考えもしていなかった返答に、スーリャがぽか〜んとする。
「…………カイナの人間ならともかく、俺には不可能だ」
混乱する頭で考えた末に、スーリャは再び否定した。けれど、ルー・ディナは首を振り、その考えも否定する。
「君はこれからカイナに属する者になる。だから、それが可能になるんだよ」
ルー・ディナの顔に浮かんだ笑みが、スーリャの否定の言葉を奪った。
嘘ではない。望むなら可能なのだと。彼の神は、彼の常識を覆す結論を眼前に突きつける。
結局、困惑した表情でスーリャは沈黙するしかなかった。

「事が事だからそれほど猶予もないけど、今すぐに結論を出す必要もないよ。どうするかよく考えて決めればいい。無論、別の願いでも僕はかまわない」
ルー・ディナはこの話はこれで終わりと言い切り、言葉を続けた。
「審判者の役目を終えても、君が僕の愛し子であることに変わりはない。君の幸せこそ僕の願い。王さまにしっかり幸せにしてもらうんだよ。……はあ。娘を嫁に出す気分ってこういうのを言うんだね、きっと」
聞き捨てならない最後の台詞に、スーリャは憤慨した。

「誰が娘だ!」

思わずそう叫んだが、その抗議の声はあっさりと流された。悪気のない顔でルー・ディナが飄々と言葉を続ける。
「似たようなものでしょ、君は嫁に行くんだから。婿を取るわけじゃないし」
「嫁とか婿とか、なんでそうなる!」
顔を赤くしてスーリャは怒鳴るが、効果はまったくない。
「王さまには前に釘を差しておいたけど、もし泣かされるようなことがあったらしっかり僕に言うんだよ。わかったね」
憂い顔のルー・ディナが、ガシッとスーリャの両肩をつかむ。

「返事は?」
「………」

スーリャはため息をつき、天を仰ぐ。

どうしてくれよう、この天然。
頭、痛い……。

本気で心配しているらしいルー・ディナの姿を、スーリャは複雑な気分で見たのだった。





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2007/03/30
修正 2012/02/06



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