天の審判者 <57>



シリスは執務机の上にある書類の山を見つつ、どこか上の空でため息をつく。
スーリャがカイナから去って、もうすぐ三ヶ月が経つ。



あの後。
シリスが気がついた時にはあの場にスーリャの姿はなく、昇ったばかりの太陽から降り注ぐ光に、湖面をきらめかせている月沙湖があるだけだった。
その様子に胸中にわだかまる何かがざわめく。けれど、それが何かわからず、シリスは小さく息を吐き、考えることを止めた。
月沙湖は昨夜の出来事が夢に思えるほど、いつもとどこも変わらないように見える。だが、あれは夢ではなく現実だ。
たとえ一時であったとしても、スーリャを手放した喪失感はシリスの心に存在し、空虚な穴となっている。
それは彼に再び会えるまで埋まることはない。
約束通り、彼が帰ってくるまで―― ただ、待つことしかできない。



そうして時は経ち、今日に至る。
スーリャのお陰で、ジーン王国は国土は少しずつ回復のしてきていた。あの時以後、シリスが赤黒い羽根の蝶を見ることはなく、今の国の様子から察するに禍は完全にこの国を去ったと考えていいのだろう。
この結果をもたらした一番の功労者はスーリャだ。けれど、その本人がこの場にはいない。

早く帰ってこい。

シリスは心の中でスーリャに何度も呼びかける。
ただ彼が無事に戻ってくるのを待つ日々。信じていても、たまにどうしようもなく不安に襲われた。このまま二度と会えないのではないかと――。

それを吐き出すように、シリスは再びため息をつく。
「まったく、そんなにため息ばかりついて。全然仕事が進んでいませんよ」
執務室に入ってきたリマが、執務机の上に積まれた書類が全然片付いていないことを確認して呆れたように言った。
新たに持ってきた書類をその上に分類しながら追加する。
「ため息をつくと幸せが逃げていきますよ? 気晴らしでもいいですから、とりあえず仕事をしてください」
仕方ないという風に肩を竦めながら、リマが苦笑する。
「今のあなたをスーリャが見たら、盛大に呆れられるだろうし、怒ると思いますよ? 仕事は真面目にやれって」
その情景を想像してしまい、シリスは顔をしかめる。スーリャなら言うかもしれない、と思わず納得してしまったが――。

「……仕方ないだろ。もうすぐ三月だ。俺には蒼夜が元気かすら、知る術がない。気にするなって方が無理だ」
憂い顔のシリスの言葉に、リマもまた表情を曇らせる。
「そうですね。スーリャのお陰でジーン王国は救われましたけど、彼がどうなったのか私達には知る術がない。早く無事に元気で戻ってきてくれるといいのですけどね……」
重苦しい沈黙が二人の間に流れる。
その思いとは裏腹に、外は清々しいほどの晴天だ。

ふと。
シリスは何かに気づいた様子で、窓の外を凝視した。正確には、上空を。
それにつられるように何事かとリマも視線を向け、それに気づいて凝視する。

「……あれは、人、ですか?」

断定できないのは、その影がまだ遠いこともそうだが、何より人が空を飛ぶはずがないという前提があるからだ。

「蒼夜だ」

そこからのシリスの行動は早かった。立ち上がった彼は素早く姿を隠すように外套をまとい、窓から身をひるがえす。
「迎えに行ってくる」
リマが止める間もなかった。姿の見えなくなったシリスを、呆気に取られた様子でそのまま見送る。
「…………なるほど。ああやって彼は、この国に来たのですね」
話に聞いてはいたが、実際は半信半疑だった。けれど、今、目線の先で起こっていることが、その事実を証明している。
リマはため息をつき、視線を空から室内へと戻した。

その先にあるのは、シリスの執務机の上に残された大量の書類の山。けれど、これを処理する予定だった人間はしばらく帰ってこない上に、帰ってきたとしてもしばらく仕事にならないはずだ。
最低、今日一日。否、たぶん二、三日は……。

そのことが手に取るように想像できて、
「この書類、いったい誰が片付けるんでしょうね」
小さく呟き、再び空を仰ぐ。
先程よりもはっきりとした人影がそこには見えていた。その様子から数分後には迎えに行ったシリスと合流するだろうと推測する。

恋人達の再会の邪魔をするほど、リマも野暮ではない。
「……仕方ありませんね。この貸しは高くつきますよ」
彼は微苦笑し、手近な書類から片付け始めたのだった。



ああ、空が蒼い。

思わず、スーリャは現実逃避をした。
なんだって、こうも落ちているかな。内心、ため息をつく。
覚えていないけれど、たぶん初めてカイナを訪れた時もこうしてきたんだろうなぁ〜としみじみと考える。
一度あることは二度、二度あることは三度あるというが、これもその類だろうか。
どことなく冷めた気持ちでそう考えている間にも、身体は空から大地へと確実に落ちている。気絶できるものならしたいが、こういう時に限ってなぜか意識がはっきりしていてできない。

どうしようか。否、どうしようもないよな。

命の危機を前に、スーリャは開き直っていた。結局、なるようにしかならない。
ただ、一言文句を言えるならこの状況を作った張本人に言いたかった。

出現地点くらい考えろ、と。



シリスは走っていた。スーリャと初めて出会った時のように。
彼と初めて出会い別れた月沙湖へと。

そこでは出会った時と同じ光景が広がっていた。
湖の上に浮ぶスーリャ。
けれど、あの時とは違いスーリャは目を開けて、途方に暮れた顔をしていた。
スーリャもシリスの姿に気づき、何か言いかけたのだが―― 彼の身体は唐突に均衡を失い、あの時のように湖に吸い込まれてしまった。
シリスは大慌てで外套など泳ぐのに邪魔な物を脱ぎ捨て、身軽になって湖に飛び込む。幸いすぐに飛び込んだので、それほど潜ることもなくスーリャを捕まえて岸に引き上げることができた。

「大丈夫か?」
少々水を飲んでしまったらしいスーリャの顔をのぞき込む。
「……なんとか」
少し掠れた声で返事をした後も、スーリャはしばらくゼイゼイと荒い息で呼吸を調えようとしていた。シリスはその背中をゆっくりとさすり、彼が落ち着くのを待ってからその身体を抱き締める。
「お帰り、蒼夜」
腕の中の存在が本物であることを実感し、その胸によろこびが駆け巡る。
「ただいま」
スーリャもまた、シリスの背に手を回して、その温もりを確かめたのだった。



「それにしてもなんで今回も空から降ってきたんだ?」
手は背に置かれたまま、少しだけ離れ互いの顔が見える距離を保ち、シリスが呆れたように問い掛けた。それにスーリャは憮然とした様子で、口を尖らせ、眉間に皺を寄せる。
「そんなの俺が知るか。ルー・ディナに聞けよ」
誰が好き好んで命綱のない空中落下をするものか。その瞳がそう訴えていた。

スーリャはルー・ディナの「またね」という言葉と共に、突然、空中へと放り出されたのだ。わけがわからないのは彼も同じだ。
混乱する頭で思わず現実逃避しても、誰も責められるものではないだろう。
幸いだったのは、地上が近づくにつれ、重力に反し落下速度が緩やかになったことだ。湖の上に到着し、どうしようか困っていたら急に足場が無くなり、そのまま落ちたのは幸い中の不幸だった……。

「これからは俺の傍にいてくれるか?」
シリスがその顔にニヤリとした笑みを浮かべる。
「まあ嫌だと言っても、今度は手放すつもりはないけどな」
その瞳だけは笑うことなく、真剣な光と宿していた。
スーリャはその瞳を見つめ返し、
「当たり前だろ。俺はシリスの傍にいるためだけに、この世界に戻ってきたんだ。あんたの傍以外にどこに行けって言うんだよ」
くすぐったそうな顔で、それでも堂々と言い切った。

シリスはスーリャを抱きしめる腕に力を入れる。
「幸せにする。シリスの名にかけて、生涯蒼夜を愛することを誓う」
「……ありがとう」
頬を赤く染め、スーリャははにかんだが、
「だけど、少しだけ違うだろ?」
意味ありげに笑った。シリスが不思議そうな顔になる。そのキョトンとした様子に、スーリャがおかしそうに笑い声を上げた。

「二人で幸せになるんだ。俺だってシリスを幸せにしたい」

じわりじわりと染み入るようにその言葉をシリスは受け止め、笑顔になる。
「生涯シリスの傍らにあり続けることを、蒼夜の名にかけて誓う。愛している」
二人は微笑みあい、そっとどちらからともなく唇を重ねる。



光の祝福が二人に降り注ぐ。
ただ互いのことだけを想い、傍らに存在する温もりに安堵する二人の姿を、湖が静かに見守っていた。
透明に澄んだ湖面に波紋はなく、蒼い空が映っている。
そこには欠けた白い昼の月。
風もないのに、湖を取り巻く森の木々がサワリと揺れる。
否、森全体が、大地がざわめく。

天も地も。
再び巡り会えた恋人達を祝福していた。



<完>





*************************************************************
2007/04/07
修正 2012/02/06



back / novel / あとがき


Copyright (C) 2006-2012 SAKAKI All Rights Reserved.