天の審判者 <52>



月沙湖では昼の静寂が嘘のように、妖しく奇妙な光景が広がっていた。

湖面を覆いつくす、赤黒い羽根を持つ蝶の群れ。
蝶は金色の光をまとい、周りを照らし出す。
それは夜の闇を退ける、光の乱舞。

シリスは唖然と立ち尽くす。その隣でスーリャは、冷静にその光景を見つめながら彼に問い掛けた。
「シリス。あんたの目に禍はどんな風に見える? 禍とは何だと思う?」
強く握られた手から伝わってくる震えに、シリスは視線をスーリャへと移した。
彼は静かに禍を見つめながら、ひどく悲しそうな表情を浮かべていた。
「アレが正体が何か、俺にはわからない。ただ、あの赤黒い蝶はこの場に、この地上にあっていいものではない。あの存在はあまりにも不自然すぎる」
シリスの答えに、スーリャはよりいっそう悲しそうな表情になり、
「そう。あれはこの場に、この地上に止まってはいけないものだったんだ」
小さく呟くように言葉を続ける。

「不自然なのは、当たり前。あれは生き物じゃない。生き物の形をした別の物だ。禍とは強大な力の塊のこと。でも、それだけならこれほどの害はないはずなんだ。問題はそれに付随した意思。あまりにも強い想い。それこそが、禍の源になってしまった」
「意思?」
意外な言葉に、シリスが驚く。スーリャは頷き、
「そう。負の意思。深い怒りと悲しみ。絶望、そして、虚無。俺にわかったのはそこまでだけど、この存在はあまりにも悲しすぎる。たとえこの国のすべてを飲み込んだとしても、それは仮初の癒え。いずれまた、飢えが滅びをもたらす。これ以上繰り返さないためにも、今ここで俺がその鎖を完全に断ち切る。もう終わりにするんだ」
繋いだ手を解き、一歩前に出た。

シリスが慌ててスーリャの腕をつかみ、引き止める。
「何をする気だ?」
振り返ったスーリャがシリスの顔を見て、微笑む。
「……あんたは待ってるって言っただろう。だから、手は出すな。俺は審判者としての役目を果たしに行く」
その顔はシリスがこれ以上関わることを拒絶していた。だが、こんな状況で彼を手放せるはずがない。
「言った。言ったが、それとこれとは別だ。蒼夜、何をする気だ?」
シリスは再度、強く問い掛けた。それにスーリャは肩を小さく竦め、
「さあ? 俺にもわからない」
答えにならない言葉を返す。
「こんな時にふざけるな!」
はぐらかすような態度にシリスが苛立つ。スーリャが困ったような顔になった。

「俺だって説明できるならよかったんだけど、どう説明すればいいかわからないんだ。ただ、あんたは手を出すべきじゃない。これは審判者である俺にしか与えられていない権利であり、義務だ。本来なら今夜ここで起こることも、審判者以外が知るべきじゃなかった。とはいっても、たぶんあんたなら大丈夫、かな」
「……それはどういう意味だ?」
微妙に含みを持ったスーリャの言い回しに、シリスの顔が嫌そうに歪む。
「禍はこの大地に根付くもの。元々この世界の人間じゃない審判者の俺は、その影響の範疇外にいる。だけど、この世界の人間で、今、禍が活発化している大地に住むあんたは、本来ならその余波を思い切り受ける立場にいる。俺がこの国全体を深い眠りに誘ったのも、その影響をできるだけ軽くするためにしたことだ。でも、あんたには効かなかった。一部でしかないとはいえ、ルー・ディナの力にシリスは勝った。……あんたは別格なんだよ、たぶん」
理由を説明したスーリャに、シリスは深々ため息をついた。
「なんかうれしくない話だな」
心底嫌そうにしているシリスに、スーリャが声を上げて笑う。
「特異体質だと思えばいいだろ? そのお陰で今、こうして俺はあんたと話していられる」
「そうかもしれないが――」
ブツブツと文句を続けるシリスは、変わらずスーリャの腕を取ったままだった。このままでは、スーリャは動けない。

「あのさ。そろそろ手を放して欲しいんだけど……」
「おまえに危険はないんだな?」
不意打ちのように訊ねられ、キョトンとなったスーリャが、その問いに込められた彼の心を知って、くすぐったそうに笑んだ。
「大丈夫。どちらかというと、俺はシリスの方が心配だよ」
どんな影響があるかわからないからさ。

真剣な表情で自分を見つめるスーリャに、シリスは意味ありげな顔をして、
「俺は大丈夫だ。色々な意味で日々鍛えられているからな」
自信ありげに言い切った。
「リマのお小言とか、鉄拳制裁とか?」
その言葉に含まれた意味を読み取り冗談交じりにスーリャが言えば、悪乗りしたシリスがそうそうと相槌を打つ。そして、二人は顔を見合わせ笑い合った。
そのまま自然と唇を重ね合わせる。

「必ず帰ってこい、俺の元へ」
「うん」

スーリャの頷きを合図に、シリスの手が彼の腕を放す。
踵を返したスーリャは蝶の群がる湖の縁へ進み、なんの躊躇いもなくそこにその身を投げた。金色の光を帯びた赤黒い蝶が、スーリャの姿をすぐに覆いつくす。
彼が消えたその中心から赤黒い蝶は金色の光の砂へと変化し、漆黒の空へと舞い上がった。
きれいだが、儚く物悲しいその光景を、シリスは己の瞳に焼きつけるように見ていた。結末を見届けることこそ、己が役目であるかのように――。

けれど、彼が目に出来たのはそこまでだった。
突如ふくれ上がった乳白色の光がその目に、身体に突き刺さる。シリスは全身を強打されたような衝撃を受け、その場に昏倒したのだった。

金色の光の雨がジーン王国の大地に降り注ぐ。
国中の生きとし生けるモノが深い眠りの中、ひとつの夢を見た。

覚めれば消える、儚い夢を。
忘れ去られた、遠い昔を。

光の雨はまるで月の涙のようだった。





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2007/03/04
修正 2012/02/05



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