天の審判者 <51>



夜も更けた頃、スーリャは手早く身支度を整えて部屋をこっそり抜け出した。
王宮内は無人のように、ひっそりと静まり返っている。それは、王宮に限らずジーン王国内すべてに渡っているはずだ。

これからこの国で起こることが誰の目にも映らないように、誰の心にも深く残らないようにスーリャが呪をかけた。
今夜だけはジーン王国の、ありとあらゆる生き物が深い眠りにつくように。
目覚めたら忘れ去られる夢で済むように。
だから、今、この国で起きているのはスーリャだけ。そのはずだったのに……。
なぜ目の前にこの人がいるのだろう。
もっとも会いたくて、同時に今、もっとも会いたくない人がそこに立っていた。
スーリャを待ち構えるように、ひっそりと夜の闇に紛れるようにして――。

その姿を見つけた瞬間。スーリャは何もかも投げ捨てて、その胸にすがってしまいたかった。けれど、その思いを必死で止める。
「……なんで、あんたがここにいるんだよ」
震えそうになる口から出た声はひどく掠れ、情けないほど乱れていた。
「俺が居たらまずいか?」
答えるシリスの口調は軽かったが、その表情は真剣で、まっすぐにスーリャだけを見つめている。
「誰にも気づかれずに事を済ませて、そのまま消えるつもりだったか?」
静かに告げられた言葉に、スーリャの肩があからさまなほどビクリと揺れた。
言葉もなく、彼はシリスを見つめ返すことしかできない。
沈黙を肯定と取り、シリスは言葉を続ける。

「俺は認めない。おまえは俺の傍にいるって言ったな、蒼夜?」

自分の本当の名前。
この世界でシリスにだけ呼ぶことを許した名前がスーリャを縛る。
想いは募るばかりだ。このままシリスの傍に止まりたいのに……それでは禍の進行は止まらない。そう遠くない時に別れはやってくる。
スーリャのもっとも望まない形でもたらされるだろうそれを、受け入れることなどできるはずもない。だから、自分は――。

「言った。俺だってあんたの傍にずっといたい。だけど――」
「なら、いればいい」
スーリャの否定の言葉をシリスが遮る。
スーリャは泣きそうに顔を歪めながら、首を横に振った。
「思い出したんだ。カイナを去ることは初めから決められたことだった。禍でこの地をのみ込むよりも解放することを選んだ時から、それは避けられない唯一の方法になったんだ。俺は運び手。この地に縛られたそれを正常な形に戻してあるべき場所に返すためにも、ここに止まることはできない。俺がカイナを去らなければ、この国に巣食う禍もまた、命のすべてをのみ込むまで消えることはないんだ」
だから、あんたの傍にはいられない。

その瞳からは今にも涙が零れそうだ。スーリャの身体をシリスはそっと壊れ物のように抱き締める。スーリャは抵抗もせずに、その抱擁を受け入れた。
「……すべて終えた後、戻ってくればいい。待っているから、必ず帰ってこい」
シリスが耳元で囁く。スーリャはハッとした様子で顔を上げた。

帰る……。
シリスの元へ。

去ることばかりに気を取られて、スーリャはその可能性をすっかり失念していた。
二人の眼差しが間近で絡み合う。

「帰ってこられる、かな? 帰ってきていいの?」

小さく呟いたスーリャに、シリスは頷く。

「おまえの居場所は俺の傍だ。必ず帰ってこい」

スーリャは頷いた。その眦から静かに涙が零れていく。
それを拭いながら、シリスは己の不甲斐なさを噛み締めていた。
ただ待つことしかできない。シリスはスーリャと共に行くことができない。
それがひどくもどかしかった。
この国の王でありながら、彼にすべてを委ねることしかできない自分が心底情けなかった。



「それにしても、どうしてシリスには俺の力が効かなかったんだろう」
二人は月沙湖に向かって、昼間の時のように手を繋いで歩いていた。
初めはスーリャもシリスの同行を渋ったのだ。けれど、結局シリスの押しの強さと、迫り来る時間に折れた。

本心ではスーリャもシリスとは離れ難かった。ただ、知るべきではないことまで彼が知ってしまうのではないかと、スーリャは心配だった。
スーリャは外の人間だが、シリスはカイナの、今、禍が活発になっているジーン王国の人間だ。
禍と関わり深い地の人間だからこそ、そこから受ける影響も強い。だからこそ、スーリャは国全体に呪をかけるという、大がかりな保険まで行ったのだ。
それなのにシリスにはまったく効かず、彼はスーリャの目の前でこうして普通に動いている。

「ナイーシャさんから聞いてないか? 俺は特別だって」
「……聞いた気もするけど」
納得できないとスーリャの顔にはありありと描かれていた。
本当に必要なものは何だったか。
それを理解した時から、スーリャの中にあった歯止めがなくなった。それに伴ってルー・ディナから与えられた力の使い方も理解できるようになり、今では自在に扱えるようにもなっている。
今回の大掛かりな呪はその力を元に行ったものだ。
いくらシリスが特別だからといっても、神の力まで効き目が無いなんてことがあるのだろうか。

「ナイーシャさん曰く、俺が使える力は他と隔絶するほど大きいが、それも本来持っているだろう力からすれば、ほんの少しでしかないらしい。多くは眠っていて、どのくらいか正確には把握しきれないと言われた。俺自身にもそれがどのくらいになるかわからない。だが、この力はそれでいい。それだからこそ、害にならずに済んでいるからな」
シリスはぽつりぽつりと語る。
「俺の力は強すぎる。たぶん、人間が持つには過ぎたほどに。それがわかっているから、この力のほとんどは眠っているんだ。だが、それは力が無くなったわけではないからな。俺は他者の力にほとんど影響されない。ナイーシャさん曰く、力の強い者ほど耐性があり、弱い者の力の影響を受けないってことらしいが、たぶん今回もそういうことだろう」
スーリャはシリスの告白に唖然とし、思わず歩みを止めた。彼と手を繋いでいたシリスも半歩遅れて立ち止まり、スーリャを振り返る。

今、この国を覆う呪の元はルー・ディナの力だ。
スーリャが与えられたのはたぶんその一部でしかないだろうが、それでも神の力には違いない。人間には過ぎた力なのだ。
それなのにシリスは、その力を己が持つ力より弱いと言った。
信じられないといった様子でマジマジと自分を見上げるスーリャに、シリスは苦笑する。
「俺が恐いか?」
一瞬キョトンとした表情になり、言葉の意味を理解しかねて眉根を寄せ、それでも首を横に振ったスーリャに、シリスは苦笑を深めた。
「俺は自分が恐い。この力はいつ完全に目覚めて、暴走するかわからない。それが恐い」
そう言いながらも彼の声はひどく穏やかに聞こえた。木々の隙間から差し込む月明かりで見えた彼の顔も、瞳も言葉とは裏腹に声同様、静かで穏やかだ。
「異なるのは、髪の色でも瞳の色でもない。俺の存在そのものだ。でも、俺は俺でしかない。シリスという名を持つ、ひとりの人間でしかない」
すべてを悟ったような、諦めたような姿。
だからこそ、そこに潜む孤独がスーリャの胸に痛かった。

これがシリスが長年抱えてきたものなのだ。
それはスーリャが今この場で簡単に取り去ることができるものではない。もしかしたら一生かかってもできないかもしれない。想像してその気持ちを察することはできても、シリスと同じ立場に立つことはできないのだから。
けれど――。
「あんたは大丈夫だ。シリスがシリスである限り、力が暴走するなんてことはない。もしそうなったとしても俺が止めてやるよ。傍にいれば可能だろう? あんたが俺を止めてくれたように、今度は俺があんたを止めてやる」
スーリャはそう言い、安心させるようにシリスに晴々とした笑みを見せた。

実際はどうかなんてわからない。なんの確証もない大丈夫だ。
それでもスーリャはシリスに二度とこんな悲しいことを言わせたくなかったし、そう思わせたくもなかった。
シリスの傍を離れたくない。彼をヒトリにしたくない。
スーリャは絶対に彼の傍に戻ってくることを己に固く誓った。
そんなスーリャの頭をシリスは撫で、
「……ありがとう」
小さく呟き、手を繋ぎ直して止まった歩みを進める。スーリャもシリスに少し遅れて、また歩み始めた。

この先には別れがある。二人にとって、どうしようもない別れの時が迫っていた。
けれど、それはまた出会うための別れ。
二人の心は互いを求め、片や待つことを、片や戻ってくることを決意した。

ただ、互いのために――。





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2007/02/28
修正 2012/02/05



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