天の審判者 <50>



詮議の結果、カリアスの処分は国外追放ということになった。
スーリャはその結果だけをシリスの口から聞いた。
カリアスが犯した詳しい罪の内容を、スーリャは知らない。だた、あれほどこだわったこの国に、彼は二度と足を踏み入れることができなくなった。それだけは確かなことだった。

彼がジーン王国を去ったその日。スーリャはシリスを誘い、二人が初めて出会った場所へと向かっていた。気を失っていたためにスーリャの記憶にはないが。
月沙湖と呼ばれる湖。
そこが始まりであり、終わりである場所。
時が満ちるのは今夜。満月の夜。
ルー・ディナの力が一番満ちる真夜中、月が中天に達した時。
スーリャはジーン王国を蝕む禍の芽を、それに秘められた、大地に縛られた嘆きの鎖を解き放つことができる。
ただし、その時に彼はこの世界を去らなければならない。そうすることでこの国は禍から解放され、スーリャの『天の審判者』としての役目が終わる。
それが初めから取り決められたことだった。

スーリャの半歩前をシリスが歩く。
繋がれた手は暖かいのに、どうしてこんなに心の中は冷たくなっていくのだろう。
そうぼんやり考えながら、スーリャはシリスと繋がる手に力をこめる。
シリスには自分がこの世界から去らなければならないことを告げていない。それでも彼の態度から何か感じ取っているのだろう。どことなくその表情が硬かった。

たどりついた湖の縁に膝をつき、スーリャは湖面をのぞき込む。
そこに映るのは情けない顔をした自分。それを取り繕うように彼は笑みを作る。
いつの間にこんなに弱くなったかな。心の中で自分に問い掛ける。
この世界を訪れたばかりの自分の方が、よほど強かった気がした。
鏡のような湖面に浮かぶ顔が、風によってユラユラと乱れる。そこに見えるおぼろげな顔は、今の彼の心境そのものだった。

スーリャがここに来た理由は、この場に禍が眠っていることを自分の目で確かめるため。だけど、それ以上にこの胸に巣食う迷いを振り切るためだった。
今、この時を逃せばシリスに話すことができなくなる。今夜を限りに、この地を禍が蝕むことはないのだと伝えられなくなる。

『これもまた時の流れ、運命か』

スーリャの中で何度も繰り返されるカリアスの言葉。
そう。これは運命。だから、仕方ない。大切な者を失うことだけは免れるのだから……。
何度目かのくじけそうになる決意を胸に、スーリャは隣に座るシリスを見た。彼はじっとスーリャを見ていたらしく、その視線がまっすぐに絡み合う。
「今夜、すべての決着をつけるよ。この国が禍に蝕まれることはもう無くなる」
スーリャはなるべく感情を込めないよう、淡々と事実を告げる。そうでもしなければ、心の迷いを暴かれてしまいそうで恐かった。
金色の瞳が静かに、そんなスーリャを見つめている。
「……そうか」
シリスはただそう答えただけだった。
それ以上何も言わず、彼の瞳を見つめ続ける。

沈黙に耐え切れなくなったのは、スーリャの方だった。
「なんだよ、その答え。うれしくないのか」
シリスから視線をそらし、湖面を見る。
「どうなんだろうな。俺にはそれよりスーリャがなんでそんな顔をしているのか、その方が気になる」
気遣わしげにそっと頬に触れたシリスの手から、スーリャは逃れ、
「どんな顔だよ」
わざと不機嫌そうな声で言った。

「その瞳だ」

シリスの言葉の意味がわからず、スーリャが首を傾げる。
「俺の瞳?」
「スーリャはわかりやすい。取り繕おうと思えば表情は取り繕える。だがな、その瞳は嘘がつけない。何かをその奥に仕舞い込む時、おまえの瞳はひどく静かなんだ。普段は感情豊かなのにな、不思議なほど静かになる」
わかりやすい、と言われたのは何も初めてのことではない。それは以前、キリアにも指摘されたことだった。
だから、いつもと変わりなく自然にみえるように、表情や仕草は意識していたのに――。

「まるでこの湖面のように、今、その瞳に宿るのは凪だ」

そよとも吹かなくなった風に、湖面は揺るぎなく静かな面持ちをたたえている。それが今の自分の瞳だと言われても、スーリャには理解できなかった。
「何がおまえにそんな瞳をさせる?」
シリスが痛いほどまっすぐに自分を見ていることがわかる。けれど、スーリャはその理由を彼に語るよりも沈黙を選んだ。

シリスが小さくため息をつく。
「スーリャ、俺はそんなに頼りないか?」
苦く吐き出すようなシリスの言葉に、スーリャは首を振った。
「なら、どうして一人ですべてを抱え込もうとする? 話してくれなければ何もわからない」
話すことを拒絶し、スーリャは再び首を振る。
言葉にすれば、二人を隔てるものがより鮮明になる。変えられない事実が、今、傍にいられるこの時すらも侵食し、消し飛ばしてしまいそうだった。

頑として話そうとしないスーリャに、シリスは再びため息をつく。
「わかった。もう無理には聞かない」
その硬い、ともすれば冷たい響きの声に、スーリャはハッとしてシリスを見た。
怒らせた。悔恨の思いを抱えたまま目にした彼の顔は―― 己を責めていた。そこには彼に対する怒りなど、微塵もない。
シリスにこんな顔をさせたくはない。こんな顔をさせるために、ここに誘ったわけでもない。それでも、そのことを言葉にする勇気は持てそうになかった。

スーリャは気分を変えるように息を吐き出す。
「……あのさ。今の俺には元の世界の記憶が無いのは、あんたも知ってるだろ? その記憶が戻るのは、すべてが終わった後だってこともさ」
急に話題を変えた彼をいぶかしげに見つつも、シリスは何も言わずに頷いた。
「まだ事が成ったわけじゃないから、本来なら記憶が戻るはずはないんだけど。なぜか一つだけ思い出したことがあるんだ」

シリスに覚えていて欲しい。
スーリャと呼ばれる前の、スーリャになる前の自分。
向こうの世界に繋がるもの。

「俺の名前」

スーリャはシリスを見て、にっこりと笑った。
作ったものではなく、心の内からの笑みをその顔に浮かべ、

「蒼夜って言うんだ」

驚いたように見開かれた金色の瞳を見つめる。
「ソウは濃い青色。俺の瞳の色みたいなさ。ヤは夜。黄昏を過ぎて、闇夜が訪れる前のほんの一時の色。それが俺の名前」
じわりじわりと染み入るように、シリスの顔に笑みが浮ぶ。
「きれいな名だ。おまえによく似合う」
「ありがとう。この世界でその名で俺を呼んでいいのはシリスだけだからな。あんただから教えたんだ。だから、呼んで。俺をその名で」

それでこの世界に、あんたの傍に繋ぎ止めて……。

声に出さずに、そう願う。
唐突に抱きついてきたスーリャを受け入れ、シリスはその身体をやさしく抱き締め返した。

「蒼夜」

望まれるままに名前を口にすれば、スーリャの手に力がこもる。この態勢では彼が今どんな表情をしているか見ることはできない。けれど、その身体は小さく震えていた。
シリスは宥めるように、スーリャの頭を撫で、
「蒼夜、大丈夫だ」
何度もそう繰り返した。

落ち着いたスーリャがシリスに顔を見せた時、頬には想像通りに涙の筋がいくつもでき、その瞳は赤くなっていた。けれど、その顔に悲しみはなかった。
儚く消えてしまいそうな、それでいて幸せそうな笑みを彼は浮かべている。
その笑顔にシリスは胸騒ぎがした。これほど近い距離に居るというのに、彼はスーリャの存在をとても遠くに感じていた。





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2007/02/23
修正 2012/02/05



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