天の審判者 <49>



シリスは不吉な予感に、馬を限界ギリギリまで駆けさせていた。
先程から感じている異質な気。かつてスーリャから感じたことのあるそれは、強大にふくれ上がり、今この瞬間にもまだ大きく変化していた。
この先にスーリャがいる。シリスはそれを確信していた。そして、彼の気がこれほど大きく揺れ動いていることに不安を覚えていた。

スーリャがさらわれたと報告を受けたのは、少し前のこと。
今日のシリスの予定は、王宮外に公務で出掛けることになっていた。だから、なんらかの動きはあるだろうと予測していたが、こうもあっさり尻尾を出すとはさすがに思っていなかった。
それほどにカリアスも焦っているということか。
以前からカリアスの所に潜り込ませていた密偵から、スーリャが郊外の屋敷に運び込まれたという報告も届いていた。そこは表向きは、どこかの道楽貴族の持ち物になっているが、実際はカリアスの隠れ家の一つだという。

シリスは密偵にまだ動くなと命じた。
スーリャに命の危機でも迫らない限り、傍観に徹しろと。時を待てと。
シリスは今、そのことをかなり後悔していた。
普段の彼からは考えられないようなひどくささくれた気が、シリスの心に直接突き刺さる。それはよく切れる鋭い刃物ようだったが、同時にひどく脆さを感じさせるものだった。

いったい何があった?

シリスは心の中で何度もスーリャに問い掛けたのだった。



やっとたどり着いたそこでは、光が溢れていた。
視界を焼くほどの、鮮烈な白い光。
それを直接目にし、目を閉じてうめく男達の中に知った顔を見つけたが、そのことを追求するよりも光の中心にいるだろうスーリャの方を優先する。
光が強すぎて、スーリャの姿は見えない。けれど、そこに彼はいる。
シリスはそう確信していた。だが、その何もかも拒むようなありさまに、彼はその名を叫ぶ。

「スーリャ!」

光は一瞬で消え去った。初めから何もなかったかのように。
その後にはどこかぼんやりとした様子のスーリャの姿があるだけ。だが、それもシリスの姿を認識するまでのことだった。
スーリャはそこにシリスが居ると知った途端、その瞳を怒りに染め、
「ふざけるな!」
シリスに詰め寄ったかと思うと、その頬を拳で殴った。殴られた痛みよりも、その行動にシリスは面食らう。唖然として反応しないシリスの胸倉をつかみ、スーリャは声を張り上げる。

「勝手に死ぬことなんて許さない」
怒りに染まった瞳と胸倉をつかんで震える手。

働かない頭で考えても、シリスには何がこれほどスーリャを怒らせているのかわからなかった。
「……なんでそうなる?」
ようやくシリスの口から零れた言葉に、スーリャの顔が泣きそうに歪んだ。
「俺にとってあんたのいないこの国なんてどうでもいい。あんたが国のために命を捧げるというなら、そんなことする前に俺がこの国を壊してやる。俺にとっては国よりもシリスの方が大事だ。シリスの命の方が大事」
だから、勝手に死ぬことなんて許さない。

不思議な蒼い色の瞳がキラキラと輝いている。自分をまっすぐに睨みつけるそれを、シリスはきれいだと思った。
そこに宿る強い意思に、その唇から紡がれる熱烈な告白に心は熱くなる。その心のままにシリスは彼を抱き締める。
「スーリャからこんな熱烈な告白が聞けるとは思っていなかったな」
しみじみと感動した様子で自分を抱き締め耳元で囁くシリスに、スーリャの怒りは一瞬にして脱力へと変わった。

「あんた、俺が怒ってる意味、ちゃんとわかってるか?」
全身にどっと押し寄せる疲れを感じながら、がっくりと肩を落とし、スーリャはその身をシリスに預ける。
「わかっているさ。でも、そんなことにはならない。俺はスーリャを信じているからな」
さらりと告げられた言葉はとても重いものでもあり、それと同時にスーリャの心に小さな火を灯すものでもあった。
「まあそのことについては実行するギリギリまで、知らせないつもりだったんだが……」
聞き捨てならない台詞に、スーリャの眉がピクリと跳ね上がる。

「なんでだよ」
ひどく不機嫌な、それでいてどこか怯えが混じった声。
シリスは腕の中の存在が愛しくてたまらなかった。このままこの場から連れ去り、彼が不安に怯えないようその身に自分の存在を深く刻み込みたいと本気で思った。
だが、その凶暴な激情を抑えて、シリスはその顔に苦笑を浮かべる。
「だいぶ煮詰まっていたのは知っていたからな。俺の命まで直におまえが背負うなんて知っていたら、余計に思い詰めただろう? そのまま今みたいに妙な方向に突っ走りそうだったから知らせたくなかった」
否定できない言葉に、不満そうに口を尖らせスーリャが沈黙した。その様子にシリスは苦笑を深めた。

「さて、と。そろそろここにスーリャがいる説明をして欲しいんだが……。カリアス、どういうことだ?」
スーリャを腕に抱き締めたまま、シリスは唖然としていた男達の中にいた見覚えのある男に声をかけた。王者の威厳をまとった静かな声は、いいわけも反論も許さない強さを持っている。
カリアスはシリスと共にこの場に現れた兵達に拘束されながらも、二人の姿を見つめて言った。
「……この者が存在することは、国家のためにも、陛下のためにもならない」
苦々しい声と表情。
シリスの顔から表情が消えた。
「おまえがそれを決めるか」
温度を下げた冷やかな声が、カリアスに向けられた。それは彼の怒りがそれだけ深いことを示している。

「このままでは国が滅びる。もし今回の滅びがそこの者によって回避されたとしても、その者が陛下の側にいる限り、いずれ王の血は絶える。そんなことが起こって良いはずがない」
「だから、スーリャをさらい、幽閉するつもりだった、か?」
「審判者を殺せば、それこそ本末転倒。その瞬間、神の怒りに触れて国が滅びる。それは愚か者のすることだ」
シリスが小さく息を吐き出した。

「おまえのこの行為こそ、愚か者のすることだ。それがわからないか。王の血がなんだ。絶えるなら、それもまた運命。それが遅いか早いかの違いだけだ。血が絶えた所で、なんてことはない。民を思う者が後を継げばいいだけのことだ」
スーリャを抱き締めるシリスの腕に力がこもる。
「所詮、血は血でしかない。特別なものなど何ひとつない。そんなものにこだわって、大切なものを見失うことこそ愚かだ。王は神じゃない。ただの人間だ。永遠の存在じゃない。国もまた同じだ。いい加減認めろ、カリアス。永遠に同じものなど、この世のどこにもない。おまえは知っているはずだ、失った者は二度と返ってこないと」
カリアスの表情が苦悶に歪む。
「限られた短い時の中で、大切な者を見つけられることは奇跡だと思わないか? 得られた喜びが大きいなら、失った悲しみも大きいだろう。だが、それに囚われ自分を失い、永遠を求めた所でそれは幻に過ぎない。変わらないものなどない」
しばらく静かな沈黙が辺りを支配した。不思議なほど、そこは静寂で満ちていた。

「……では、陛下はこの滅びを受け入れると。緑豊かなこの国が草木一本生えない荒野と化すことを認めると仰るのか?」
それを壊したカリアスの声には、今までにない感情が渦巻いていた。
「そうは言ってないだろう?」
「いいえ。陛下の仰ることはそういうことだ。そんなこと、私は認めない。たったひとりの子供のために、この国が滅びるなど――」
カリアスの瞳に狂気じみた光が宿る。

「審判者など存在するから悪い。なぜ勝手に決められなければならない。どこから来たともわからぬ者に、なぜ国の命運を握られなければならない。積み上げてきたものを奪われなければならない。そんな子供に!」

これこそがカリアスの本心。初めてスーリャの前にさらされた、彼の嘆きだった。
向けられた鋭い眼差しに、反射的にスーリャの肩がビクリと揺れる。
これほど憎しみに満ちた瞳を向けられたのは、初めてだった。

怒り、憎しみ、悲しみ、そして、絶望。
その奥に隠された、喪失感。

カリアスの姿がひどく淋しく見えて、スーリャは胸の痛みを感じる。
自分にも覚えのある感情。
彼は探し求めていた答えを、やっと見つけた。
ああ、そういうことなのかと。
カリアスからずっと感じていたもの。スーリャが無意識に感じ取り、それでいて理解しようとしなかったもの。目をそらしていたもの。
それは、赤黒い蝶から感じるものと酷似していた。

今ならルー・ディナの言葉の意味がわかる。
今まで蝶を消すことだけを考えていた。その存在を滅ぼすことだけを考えていた。けれど、それでは駄目だったのだ。
ルー・ディナの力は、破壊と癒し。
壊し続けて、その後に何が残るかと問われれば何も残らない。
破壊は何も生み出しはしない。傷を増やすだけだ。

傷つけるためにこの力を与えられたわけではないのに、自分はそうしてしまう所だった。危うく間違う所だった。
必要なのは、破壊ではなく癒し。誰もが大なり小なり持ち合わせる負の感情を受け入れること。その存在を認め、昇華させること。
そのためには、自分の心とまっすぐに向き合う勇気が必要だった。

シリスの腕の中から抜け出したスーリャが、カリアスをまっすぐ見つめる。
「ありがとう。やっと答えが見つかった」
微笑みすら浮かべて、自分の方へと歩いてくる彼にカリアスは虚をつかれる。
その存在感に誰もが身動きできなかった。
スーリャの全身から、淡く乳白色の光が放たれる。それは威圧するのではなく、すべてを包み込むような温かさを感じる光だった。
「あんたが抱える淋しさが何か、俺は知らない。けど、それが少しでも癒されることを俺は望むよ。たとえ時間がかかったとしても。受け入れ難いことだったとしても」

カリアスの手を取り、スーリャが笑みを浮かべる。
それは純粋に慈しみだけを宿した微笑み。
彼の瞳は色々な思いを内包しながらも、凪いだ湖面のような色をたたえる。すべてがあるべき場所へ収まった、とでもいうように――。
外見とは見合わない大人びた笑みを向けられ、カリアスが戸惑った。スーリャに握られた手から温かい何かが伝わってくる。
それは昔、自分の傍らにあった存在を思い出させた。

忘れたわけではない。
ただ、失った悲しみが大きすぎて、心の奥底に仕舞われてしまった存在。
一緒に過ごした穏やかだった日々を。二度と戻らない幸せだった時を。
思い出すことすら辛く、忘れた……振りをしていた愚かな自分。

どこから間違えてしまったのだろう。
どこからこの想いは歪んでしまったのだろう。

心に空いた穴を埋めようと我武者羅に仕事に打ち込んで、国家のためだと主張して働いてきた。けれど、それはその行動を正当化するための大義名分。自分を誤魔化すためだけの、都合のいい手段。
ただ、この永遠と空き続けるような穴を埋める何かが欲しかった。本当の理由はそれだけだった。

いまだ穴は埋まらない。否、初めからわかっていた。
変わりになるものなど、この世のどこにもないのだと。
認めたくなくて、ずっとあがいていただけだ。それがこの愚かな結果だ。
なんと自分に似合いの結末だろう。

カリアスは自嘲した。
その顔をスーリャがじっと見つめ、口を開く。
「あんたに必要なのは休息だ。しばらくゆっくり休んで、心を落ち着けた方がいい。あんたが落ちついた頃には、この国もまた元のような豊かさを取り戻しているはずだ」
偽りのないスーリャの瞳を見て、カリアスがため息をつく。そして、視線を彼の隣に立つシリスへと移した。
「陛下。私は罪を犯した。潔くその罰は受けよう」
憑き物が落ちたような、さっぱりとした表情のカリアスに、シリスは頷いた。
「おまえには聞きたいことがある。罰はおって沙汰を出そう」

兵士に拘束され、連行されるカリアスの後姿をスーリャはじっと見つめていた。
彼が去る前の、シリスとのやり取りが思い出される。
「陛下。血は血でしかない。特別なものなど何ひとつない。あなたはそう仰ったが、やはり王家の血は特別なもの。血筋を残すのも王の役目。考えを変える気は?」
「ない。俺の伴侶はスーリャだけだ」
シリスのきっぱりとした答えに、カリアスが諦めらめたようにため息をつく。

「……これもまた時の流れ、運命か」

カリアスの呟きは、スーリャの中でいつまでも繰り返されていた。





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2007/01/06
修正 2012/02/05



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