天の審判者 <5> |
リマが静かに扉を閉めて振り返れば、窓辺に立ちシリスは外を見ていた。 「シリス」 ゆっくりと歩み寄り、声を掛ける。 暮れ始め茜色に染まった空を見つめ、シリスは何事か考えているようだった。 けれど、リマが傍に来たことを知って視線を移す。 「ナイーシャさんの所からラシャを借りてきてくれ」 その瞳に迷いはなかった。 「はい。では……」 「全面的に保護するさ。拾った手前、途中で放り出すことはしない。審判者だってこともあるが、右も左もわからないような子供をひとり放り出すほど、俺は非人間じゃない」 「そうですね。そんな風に育てたつもりもありませんし」 シリスのきっぱりとした答えに、リマはにっこりと微笑んだ。 シリスがガックリと肩を落とす。 おまえに育てられたつもりはない。 内心そう思ったが、賢明にも口には出さなかった。 育てられたつもりはなくても、色々な意味で鍛えられた記憶はまだ生々しく残っている。 「それで、今日の執務だが――」 シリスはさり気なく話題を変えた。 途中で放り出してきたので、それなりに気にはしていた。だが、リマのことだ。たぶんそつなく処理した後、ここに来たに違いない。 「ご心配なく。今日中にどうしてもシリスにやって欲しい仕事はありませんよ。ある程度のものは私がここに来る前に片付けました。あなたの確認が欲しいものは執務机の上に置いておきますから、明日の朝にでもやってください」 案の定、リマから返ってきた返事はその通りだった。 「明日の予定も調整しておきます。午後は時間を空けるようにしますから、午前中はしっかり執務に励んでください。何か他に要望はありますか?」 ここまで言われると、これ以上言うことはない。 シリスは首を横に振った。 「いや。……有能な宰相殿がいて助かるよ」 ニヤリと笑えば、 「そうでしょうとも」 さらりとかわされた。 いつものことなのでシリスも特に気にしない。 「……そういえば夕食はスーリャと一緒にこちらで食べますか?」 「そうだな。そうする」 「では、そのように伝えておきますね。私はこれで失礼します」 一礼して去っていくリマの背中に、シリスは小さく言った。 「ありがとう」 小さな感謝の言葉にリマは言葉なく微笑む。 ここで振り返って声でも掛けようものなら、照れ屋なシリスが猛反発することを知っているだけに、リマは聞こえない振りをした。 リマが去った後、シリスが寝室に戻ってみれば、ベッドの上ではスーリャがスヤスヤと寝息を立てて眠っていた。 自分がこの部屋を出てからそれほど時間は経っていないはずだが、熟睡している様子にシリスは苦笑する。 先程のようにベッドの傍らに置いた椅子に座り、 「どう見ても普通の少年だ。『天の審判者』だなんて、何かの冗談に思える」 目蓋にかかっていたスーリャの前髪をそっと払い除け、露わになった顔をじっと見つめる。 「……運命なんてものがあるとしたなら、ずいぶんと皮肉なことだ」 苦々しく呟いて、シリスはため息をついた。 シリスはスーリャの眠る顔を見ながら物思いにふける。 審判者の存在は手広く知られているのに、細かいことはよく知られていない。 繁栄または滅亡をもたらす者と言われているが、どのようにしてそうなるのか。 審判者の裁きとは、いったいどういうものなのか。 詳細なことは何一つ知られていない。 それこそ、その部分だけごっそり消えてしまったかのごとく。 スーリャが審判者である以上、近い内にこの国は確実にどちらかの道を歩むことになるのだろう。 それに彼はどのように関わってくるのか。 シリスにはさっぱり思いつかなかった。 ただでさえ、頭の痛い種は他にある。 シリスにとって審判者が現れたことよりも、そちらの方が問題だった。 そこでふと、ある考えが浮んだ。単なる仮説でしかないが。 もしかしてそれのせいで審判者が現れたのかもしれない。 あながち間違っていない気もするが、証明できるものは何もない。 なんにせよ、スーリャは保護した方がいい。守るべき存在だ。 それだけは確かだった。 行動を縛ることは出来ないが、せめて自分の身が守れるぐらいまでは。 何も知らず目の前で穏やかに眠るスーリャを、シリスは複雑な心境で見つめ続けていた。 時刻はたぶん真夜中。 記憶にあるよりも少し大きく白っぽい月が中天にかかっていた。 それを眺め、スーリャはひとり物思いにふける。 シリスとリマが出て行った後、いつの間にか眠っていたらしいスーリャはシリスに起こされ、ラシャを紹介された。 ラシャは妙齢を少し過ぎた女性だった。 彼女はスーリャの世話をするべく呼ばれたらしく、テキパキと夕飯の準備を進め、シリスと二人でそれを食べた。 その後、シリスは帰っていったのだが、ラシャは残り、スーリャの話相手になった。些細なことだったけれど、それはスーリャの心にゆとりをもたらした。 夜もだいぶ更けた時、「何かあったらお呼び下さい」と言ってラシャは下がり、スーリャは初めに寝かされたベッドで眠ろうとしたのだが、昼間に眠っていたせいか目が冴えて眠れない。 仕方なく場所を移して――。 きれいな月夜に外に出たい誘惑に駆られたが、シリスが帰る前に「絶対に夜の内は外に出るな」ときつく言ったので思い止まった。 だから、窓越しに月を見上げる。 同じ建物内にラシャがいるはずなのに、こうも静かだとこの世界にたった一人のような気がした。否。自分は一人なのだ。 この世界は自分が住んでいた世界とは違うのだから。 どうして自分はここに来てしまったのだろう。 どうして『天の審判者』と言われているのだろう。 どうして……。 疑問はたくさんあるのに、それに対する答えは一つもない。 国の転機の鍵を握る者。 自分にはあまりにもスケールが大きすぎて、いまいちわからない。 そうじゃない。たぶん、わかりたくないのだ。 その言葉の意味する所が何なのか。シリスもリマも口にしなかった。 知っているはずなのに、曖昧に言葉をにごした。 少し頭の冷えた今ならそれがわかる。 二人はスーリャを気遣って、そこまで言えなかったのだ。 たぶん。 それは自分が知るべきこと。 この世界について何も知らない。自分がどのように関係するかもわからない。 だからこそ、それがどんなことだとしても自分には知る必要がある。 そして、考えなくてはいけないのだ。 決めなくてはいけない。 そこまで考えて、スーリャは首を傾げた。 何を決めるというのか。 唐突になんでそんなことを思ったのかわからない。 ただその思いは心の底の奥深くに止まり、消えることなく小さく主張していた。 いずれ決める時が来る、と。 今は思い出せない記憶の中に、その理由があるのかもしれない。 とりあえず手近な所から。 明日、彼らが誤魔化した部分の話を訊く。 そこまで考え、スーリャはベッドへと戻ったのだった。 |
************************************************************* 2006/06/15
修正 2012/01/16 |