天の審判者 <44>



会議に出てから数日経った。けれど、スーリャの生活は今までと変わらない。
シリスが心配したようなことも起こらず少々拍子抜けしたものの、それでも何もないにこしたことはない。
スーリャは今夜もまた例の蝶を追いかけ、消す作業を行っていた。ひとり、半月が浮ぶぼんやりと明るい闇の中をさまよう。
ここ数日、それに付き合ってくれていたシリスも、今日は仕事が忙しかったらしくていない。今夜は外に出るなと言われたが、スーリャはそれを無視して外に出ていた。

スーリャの中では、いまだに何かが歯止めをかけている。
この地に芽吹いた禍を完全に消すには、今の自分では駄目だ。
その意思が身を支配している。
それでもスーリャはなんとかしたかった。
今の自分にできること。せめて進行をなるべく遅らせることだけでも。

夜にだけ姿を表す、蝶の形を取った禍の欠片。それらは一匹消しても次から次へとどこからともなく現れた。
スーリャの周りを金色の砂が絶えず取り巻く。キラキラと輝くそれは闇の中で彼の姿を浮き上がらせ、そこだけ現実から切り離されているようだった。
どれくらいそうして蝶を追っては消しての作業を繰り返していたか。
ふとスーリャは立ち止まった。
微かに聞こえた物音に誰かいるのかと首を巡らし、自分を見つめる一対の瞳と出会う。スーリャは驚きに目を見張った。
そこにいたのは、カリアスだった。

「……こんな所で何をしている?」
金色の砂のお陰か、はたまた月明かりによるものか。うっすらとした明かりの中で、それでもカリアスの表情が読み取れた。彼もまたスーリャ同様、驚いた顔をしている。
「あんたこそ何をしてるんだよ、こんな場所で」
「まだ宵の口を少し過ぎたばかりだ。それほど遅くもあるまい。仕事だ。それにここは政務区。私がいてどこがおかしい?」
スーリャは辺りを見回し、自分がいる場所を改めて確認した。そして、カリアスの言葉通りにそこが政務区であることに気づく。
いつの間にか自分は政務区にまで入り込んでいたらしい。

「問いの答えは?」
「いつの間にか入り込んでいた、と言ったら?」
「子供は寝る時間だ。遊んでないで、早く寝たらどうだ」
スーリャを見つめるカリアスの視線が冷やかさを増す。スーリャは眉間に皺を寄せて唸った。
「子供、子供って。俺は子供じゃない」
その言葉にカリアスが目を眇めた。
「……では、審判者殿。あなたにお聞きしたい。この国をどうするつもりか、あなたの真意がどこにあるのか」
改められた言葉遣いと静かな問い掛け。
底知れない何かを含んだそれに、スーリャはこぶしを握り締める。自分を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出し、吸い込んだ。

これは自分の戦いだ。ここには自分しかいない。
自分でなんとかするしかないのだ。

前もって想定されていたとはいえ、カリアスに『審判者』と呼ばれて、スーリャは内心動揺していた。鼓動が嫌な感じに早く波打っているのがわかる。
「俺の答えはあの会議で言ったはずだ。それ以外の答えを今の俺は持たない」
平静に聞こえるようにスーリャは声を出し、カリアスの問いを突き放した。
ここでカリアスに己の動揺を悟られるわけにはいかない。知られれば、そこを突かれる。スーリャは必死で頭を働かせ、この場から逃れる術を探す。
その間にもカリアスは彼に話しかけた。
「審判者とは国に滅び、または繁栄をもたらす者。ジーン王国は今、滅びへと向かっている。このまま事態が悪化すれば、国家として成り立たなくなる。この地は人の住めない地に、それどころか草木一本生えない荒野になる可能性も否めない。あなたはこの国に滅びをもたらすのか? それが審判者としての決断か?」

カリアスの顔からも声からも感情が消えていき、スーリャには彼が何を考えているのかわからなかった。問いを投げかける彼を、スーリャは睨み返す。
「俺は普通の人間だ。神じゃない。だから、あがいている。そんな決断、誰が下すか。下せるわけないだろ? たくさんの命がかかってるんだから」
「それならこの現状はなぜ? 普通の人間だと言い張っても、審判者であることは否定しない。滅びの決断をしていないというなら、今、この国で起こっていることについて説明していただきたい」

一歩、カリアスがスーリャの方へと足を踏み出した。
スーリャの背筋に冷たいものが走り抜け、この場から今すぐ逃げ出したいという思いに駆られる。けれど、ここで背を向けるわけにはいかないと彼は足に力を入れて思い止まった。
今、ここで逃げ出せば、自分の中で何かが崩れる。そうすれば取り返しのつかないことになる気がして、スーリャは気力を振り絞り、カリアスと対峙する。
「あんたは俺を審判者だと言う。じゃあ聞くが、なぜ審判者が現れると思う? 審判者が滅びを決断するんじゃない。その逆だ。滅びが、禍が訪れたから審判者が現れる。それが真実だ。今の俺にできることは禍が広がる早さを少しでも遅くすることだけ。今の俺では駄目だ。それがわかっていても、何が駄目なのか俺にはわからない。答えが見つからない。この現状がもどかしくて仕方ないのは何もあんただけじゃないんだよ」
それは、スーリャの心からの叫びだった。

自分が禍を消さない限り、たくさんの命が消えていく。
植物も動物も、そして人の命も。
未確定の最悪な未来の予測が、スーリャの心に重く圧しかかる。以前は朧だったものが、はっきりと形を成して彼の中に焦りを生んだ。
初めは何もなかった。誰も、何も知らない国。まったく馴染みのない世界。
けれど、少しずつこの国で暮らす内に大切なものが増えた。
それらを失うかもしれない恐怖。今まで考えないようにしていたものが、スーリャの中で次々と溢れていく。それを止める術を、今の彼は持ち合わせていない。
その顔は今にも泣き出しそうだった。
それでも彼はカリアスの静かに威圧する眼差しを受け止め、まっすぐに睨み返していた。

「そこまでにしておいてくれないか」

張りつめた空気を裂くように、二人の間に声が割って入った。
馴染み深いその声にスーリャがその方向を見やると、困った顔をしたシリスがそこにたたずんでいた。シリスはスーリャの傍まで来ると彼の頭に手をやり、安心させるように撫でる。
「陛下。私はできうる限りのことをしたいだけ。国家のためにならないのなら早めに切ると言いたい所だが、相手は審判者。それでは本末転倒。とりあえず真意だけは聞けたので、今は引くといたしましょう」
並び立つシリスとスーリャを見て、カリアスが肩を竦める。
「ただし、先程の言葉を違えた時は覚悟していただく。陛下も。あなたにはなんとしてでも血を残していただく。では、失礼」
カリアスが二人に背を向け、去っていく。その姿が完全に見えなくなるまで、二人は無言で見送った。





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2007/01/02
修正 2012/02/04



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