天の審判者 <39>



その日、スーリャの自室ではなんともいえない雰囲気が漂っていた。主な原因は部屋の主である。
窓辺の長椅子に座り、その視線をぼんやりと庭に向けているのだが、彼が庭を見ていないことは明白だ。考え事に没頭しているのか、それとも本当にぼんやりとしているのか。
判断できずに、キリアはため息をつく。



事の起こりは数時間前。
最近やっとシリスへの想いを自覚したスーリャは、そのせいかどことなく落ち着きに欠けていた。特に今日はそれがひどく、完全に集中力を欠いていた彼を気遣い、ザクトは午前の勉強の時間を早めに切り上げ、気分転換にでもなればとスーリャにキリアと一緒に街にでも行ってきなさいと言ったのだ。
その言葉に従い、久しぶりに街へ出掛けたのだが、それがこんな事態を引き起こすとわかっていたら行かなかったとキリアはかなり後悔した。

スーリャがこうなった原因は、キリアがよく行く甘味処の女将に聞いた話のせいだった。
女将に悪気はまったくない。おめでたい話だから、彼女も話したかったのだと思う。けれど、それはまだスーリャの耳に入れて良い話ではなかった。
近い内に知ることになるとしても、それはこんな風に他人から聞かされるのではなく、本人から直接聞かされるべき話だった。

正式な発表はいまだされていないが、守護者の後継ぎの話。
それによって再燃した王の結婚話。

別のツテから先にその情報を得ていたキリアは、女将の話に内心舌打ちした。
スーリャの顔から徐々に表情が消えていく。けれど、女将はその変化に気づかない。そして、彼女は彼に今、もっとも言ってはいけない台詞を言ってしまった。

「陛下もそろそろ妃の一人くらい迎えても良いのにねぇ。ちょうど良い結婚話が持ち込まれているって聞くし。早く妃を迎えて後継ぎができれば、万々歳。この国も安泰だわ」



それからスーリャは黙ったままだ。なんの感情も浮ばない顔でぼんやりしている所を、仕方なくキリアが王宮のスーリャに宛がわれた部屋まで手を引いて戻ってきたのだが、その様子はいっこうに変化を見せなかった。
どうしたものかとキリアが何度目になるかわからないため息をついた時、急にスーリャが立ち上がった。そして、足早に扉へと向かう。
「どこに行くんだ?」
キリアが慌てて訊ねれば、
「シリスの執務室」
簡潔な、意思のはっきりとした声が返ってきた。けれど、その声とは裏腹に、振り返ったスーリャが浮かべた表情は儚く今にも消えそうな笑みで……。
その顔がスーリャの決意を示していた。

込められた想いを悟り、キリアが顔を歪める。
「それでいいのか?」
そう訊ねずにはいられなかった。
「……俺にはどうしたって子供は産めない」
小さな呟きは現実の重みを伴って、とても重く二人の間に圧しかかる。
「後継者は必要だろう? でも、誰かが一緒に隣に立つのは嫌なんだ。そんなこと耐えられない。だから――」
スーリャはその続きを言葉にはしなかった。それでも彼が悩んで出した答えが悲しいものだとわかる。そして、その答えがどちらも不幸にすることも。
「俺もついて行く」
結局キリアが言えたのは、その言葉だけだった。
従者としてでも、護衛としてでもなく、スーリャの友人として側に居ること。それしかできない自分を歯がゆく思いながら、キリアは背を向けて歩き出した彼の後を追ったのだった。

今、シリスの執務室内にいるのは、シリスとスーリャの二人だけ。
リマはいつもと違うスーリャの様子を察し、それとなく理由をつけて部屋から退室していった。シリスと二人きりになっても、スーリャの表情は硬い。
「シリス。返事をしに来た」
感情をうかがわせない声に、二人の間で緊迫したものが流れる。
「……俺はあんたの想いに答えられない。それが俺の出した答えだ」
シリスは何も言わず、スーリャを見ていた。その瞳をまっすぐに彼は見つめ返す。
「あんたならきっと良い人が見つかる。だから、俺にかまけてないで、そういう人を探しなよ。あんたに相応しい人を」
湖の底のような蒼い瞳に揺らぎはない。そこにあるのはどこまでも静かな凪だ。
「じゃあ。仕事の邪魔してごめん」

パタンと閉じた扉の音を、シリスは他人事のように聞いていた。その口から吐き出されたのは、深い深いため息。

本当に望むものは手に入らない。
いらないものは押し付けられるばかりだというのに……なぜ?
スーリャに対する狂おしい想いは、消えることなく日に日に大きくなる。
いっそこの想いに狂ってしまえたなら楽だろうに……。

シリスは自嘲した。

手を伸ばせば届く距離にスーリャはいる。
その身だけでも奪ってしまえと心の底で囁く声がある。
だが――。
そんなものより彼を傷つけることの方が、シリスは恐ろしかった。



それから二人の様子はあからさまなほど以前と変わってしまった。シリスは我武者羅に仕事に打ち込むようになり、スーリャは笑わなくなった。
日に日に元気の無くなるスーリャを、キリアは側で見ていることしかできない。そのことがひどくもどかしかった。
想い合っている二人なのに、色々なものが邪魔をする。
一国民としては、王に早く結婚してもらい後継者を作って欲しい。けれど、二人を知っている人間としては、二人に一緒になって欲しい。

その思いは今の状況では相反するものだったが、それでもそう思わずにはいられなかった。
スーリャは泣かない。
ふとした瞬間、泣きそうに顔を歪めるのにその瞳から涙は零れない。そして、すぐにその想いを瞳の奥に閉じ込めてしまうのだ。吐き出すことなく、一人で仕舞い込んだ胸の内にはどれほどの嵐が吹き荒れているのか。
それを知る術はなく、キリアはスーリャの凪いだ瞳を見るたびに胸を痛ませるのだった。

二人の変化に心を痛めているのは、何もキリアだけではない。
今日もまた仕事にのめり込むシリスに、リマはため息をつく。
真面目に仕事に取り組んでくれるのは良いことだ。その分、自分の仕事も楽になる。だが、これでは仕事に逃避しているに過ぎない。
「シリス」
黙々と書類作業をこなすシリスに声をかけたリマだったが、彼から返事はない。
これで何度目になるのか。
「シリス!」
聞こえているのか、いないのか。
これほど近くで呼んでいるというのに反応はない。

リマは再度ため息をつく。シリスが作業する執務机の前まで歩いて行き、バンッと作業中の書類の上に手をついた。
シリスがやっと顔を上げ、目線だけで「なんだ?」と問う。
「先程から呼んでいるのに、いっこうに返事をしないので。物を投げなかっただけ、温情だと思ってください。今のあなたに投げたら、確実に当たって再起不能になりそうですから止めてあげました」
さすがにそれは遠慮します。
しれっと言うリマに、物を投げつけるという発想自体が問題だろうとシリスは思ったが、それを口にすることはしなかった。

「それで何か用か?」
物憂げに問えば、
「休憩にしましょう。根を詰めても良いことはありません」
リマが他にも何か言いたそうな顔をしながら、そう告げる。
「……疲れたなら休憩しろ。俺はいい」
それだけ言ってシリスはまた目線を書類に戻す。
リマの表情が怒りの形相に変わった。彼は息を吐き出し、深く吸って、
「いい加減にしなさい!! 夜だってろくに休んでないでしょう。そんな状態でまともな仕事ができると思いますか? たとえ今できていたとしてもいつとんでもない間違いを犯すかわからないでしょう。今のあなたの状態では!! 今、シリスに必要なのは休息です。少しでも休みなさい」
扉の外まで聞こえそうなほどの怒声で叱りつけた。

シリスはしかめ面でリマを見て、
「……そんな大声で言わなくても聞こえる」
ぼそりと彼をとがめれば、
「これくらいでないと今のあなたには聞こえませんよ。先程、私が何度あなたを呼んだと思っているんです?」
リマに睨まれ、シリスが肩を竦める。
「それは悪かったな」
どうやら本当に彼には聞こえていなかったらしい。

「いいですよ。それよりほら、ペンを置いて移動してください」
「茶ならここでも飲める」
「……私を怒らせたいですか?」
笑顔でそう言いながらもリマの声はもう十分怒りを含んでいたし、よく見ればその顔もピクピクと小さく引きつっている。
「わかった」
渋々といった感じではあったが、やっと執務机からシリスが離れた。その様子にリマは内心、安堵したのだった。

どうしたものでしょうね。
先に女官に運んでおいてもらったティーセットで自ら香茶を入れながら、リマは考える。自分が口を出す問題でもないし、出して良い問題でもない。けれど、このままではどちらも不幸になるだけだ。
シリスはいまいちスーリャの気持ちをつかみ損ねていたようだが……知らぬは当人ばかりなり。

二人は惹かれ合っている。
だからこそ、スーリャはこの決断を下したのだろう。
もしシリスが王でなければ――。
リマはそう思わずにはいられなかった。
もしそうであったなら二人がこんな風に違えることもなかったはずだ。

シリスの前に香茶の入ったカップを置く。シリスは無言で受け取り、それに口をつけた。ここ最近の無理がたたってか、その顔色は悪い。
それを目にして出てくるため息を押えるように、リマも自分のカップを口に運ぶ。
誰にはばかることなく、二人が一緒になれる方法。
リマが思いついた方法は、限りなく可能性の低いものだった。
スーリャが女性、または両性になること。
だが、彼はカイナの人間ではない。カイナの人間でさえ滅多に起きないことが、異世界の人間であるスーリャに起こることなど……あり得るのか?

二人は無言で香茶を飲む。
どちらの胸中にも割り切れない、苦い思いが渦巻いていた。





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2006/09/24
修正 2012/02/03



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