天の審判者 <38>



その日の夕食をスーリャは一人で取った。シリスから来られないと連絡をもらった時、ホッとしたのと同時に、会えないことに淋しさを感じた。
どことなく味気無い夕食を済ませ、スーリャは月夜の庭に出る。三日月の頼りない光に照らされた庭には、昨夜と同じく赤黒い羽の蝶が優雅に舞っていた。
しかも、今日は一匹ではない。
まるですべて消せるものなら消してみろとでもいうように、十数匹もの蝶が庭で戯れていた。
スーリャは不快感に顔をしかめる。

この蝶をいくら消してもダメなのだ。
そうはわかっていても、このままのさばらせておくには数が多すぎた。
これではこの庭が死んでしまう。
次々に消されていく気の塊とそれに伴って分裂する蝶の姿を目にして、スーリャはそう思った。
手を伸ばす彼を嘲笑うかのように、蝶達は触れる寸前で逃げていく。それでも彼は蝶を追い、少しずつそれらを光の砂に変えていった。

ヒラリヒラリと舞う蝶と。
サラサラサラと流れ、空気に消えていく光の砂。
その分だけスーリャの中に虚しさか募っていく。
どのくらいそうしていたのか。庭に蝶の姿は無くなっていた。
すべて光の砂になったのではなく、この庭を去った蝶もいくらかいたはずだが、それでも数が減ったのは間違いない。けれど、所詮、蝶は禍の一部でしかなく、いくら消しても増えるのでこの行為に意味はあまりない。それでも少しは時間稼ぎになるはずなのだ。

自分にはまだ、この地にある禍の芽を完全に消し去ることはできない。
今はまだ、ダメなのだと、スーリャの心が主張する。

何がダメなのか、いつになればできるのか。
それはわからなくても。
それでも何かがそう訴えていた。

今はその時ではない、と。



蝶も追いやり、やることもなくなったスーリャは室内に戻ろうと踵を返し、そこで立ち止まった。彼が庭に出るために開けた窓の側で、同じように庭に降り立ち、自分をまっすぐに見つめる金色の瞳と出会う。
スーリャはトクンと波打ち波紋の広がった心を、息を小さく吐き出すことで宥める。そして、シリスがどことなく怒っていることに気づき首を傾げた。
「今日は来れないんじゃなかったの?」
そう不思議そうに問い掛ければ、
「やっと仕事が終わったから会いにきたんだ。この時間ならまだ、大丈夫だろうと思ってな。昨夜、聞きそびれた話の続きのこともあるし、様子を見に来てみれば―― なんで外に出た? 夜は出るなと言っただろ。しかも、あの蝶」
その声は普段よりも低く、彼が非常に不機嫌であることを示していた。

シリスはスーリャの元まで早足で来ると、その手をつかんで彼を室内まで引き戻し、長椅子に座らせる。
「アレは良くないモノだ。近づくな」
静かな怒りをたたえ、命令するシリスをスーリャが困惑顔で見上げた。
「それはたぶん無理。そもそも俺がここに呼ばれた理由がアレだから」
シリスがスーリャのことを思ってそう告げているのは理解している。けれど、その言葉には従えない。
「ナイーシャさんが以前、『あれこそ禍を呼ぶかもしれないモノ』と言っていたが――」
シリスの怒りが薄れ、その顔に戸惑いが浮ぶ。

「その考えは正しいよ。あの蝶は禍の芽の一部。俺がルー・ディナに頼まれたのは、禍そのものを消すことだ。まだ芽である内に。見てたなら、わかるだろ? あれは自然の流れを断ち切るモノ。この地を枯らすモノ。あの蝶を消せるのは俺だけだ。他の誰にも代わりはできないんだ」
「代わりはできない……」
繰り返して呟いたシリスの言葉に、スーリャは頷いた。
「あんただって、アレは消せないだろ? ルー・ディナが言ってた。禍を消すために必要なのは、自分の力だって。今、この地にいる人間でアレを消せるのは俺だけだ。他にはいない」
シリスは黙ったかと思ったら、いきなりスーリャの頭を乱暴に撫でる。なんとかそれから逃れて彼を睨みつけたスーリャだったが、目に映ったその表情に困惑した。

「なんて顔してるんだよ」
色々な思いがないまぜになった表情とでも言うのだろうか。
言葉で表現するにはその表情は複雑すぎた。
スーリャはシリスの頬に手で触れる。
「禍を消すことが俺の役目。俺はそのためにこの世界に来たんだ。アレが存在しなければ、俺はここにいない。シリスとも出会ってない。今、ここにいることに後悔はしてない。だから、あんたがそんな顔をしなくていい」
シリスは自分の頬に触れたスーリャの手を取り、握り締め、力なく首を振った。
「……俺は自分が不甲斐ない。なんの関係もないスーリャにすべてを押しつけてしまっている自分が。本来ならスーリャは自分の居場所で平和に暮らしていたはずだ。右も左もわからない異世界で、命を狙われることもなく、平和に。それを――」

―― なんの関係もない。

その言葉にスーリャの胸がズキリと痛んだ。
それが事実であったとしても、シリスには言って欲しくなかった。
この出会いすら否定されたみたいで、それが悲しい。けれど、その痛みをおくびにも出さず、彼はシリスに笑いかけた。
「俺が自分で決めたんだ。ルー・ディナの頼み事を引き受けるって。だから、良いんだよ。言っただろ。俺は後悔してない。この世界に来たこと、この国に来たこと、シリスに出会ったこと」
そして、心の中で言葉を付け足す。
あんたを好きになったこと。
面と向かってそんなこと言えはしないが。それがスーリャの本心だった。

シリスはそっとスーリャを抱き締めた。
「ありがとう」
耳元で囁かれた簡潔な感謝の言葉。それには彼の真摯な思いがこもっていた。
スーリャがシリスの背中にオズオズと手を回す。彼の姿がいつになく弱々しく見えて、励ますように、勇気づけるように、少しだけ力を入れて抱き返した。

そんなスーリャの様子にシリスは内心驚いていた。こうして彼を抱き締めるのは、何も今回が初めてではない。けれど、彼がシリスの背中を抱き返すことは今までなかった。
どういった心境の変化なのか。
顔を上げたシリスの瞳とスーリャの瞳が一瞬だけ合う。微かに入り込む月の光に照らされたスーリャの瞳は、深い夜の海のように底が知れない。
その奥で彼は何を思っているのだろう。
シリスが探り当てる前にスーリャの瞳を伏せられ、彼からは見えなくなる。

己の行動を恥らうような態度と普段より少しだけ赤みを増したスーリャの頬。
それでも離されない背中の手の感触。
シリスの内で押さえ込んでいたものが溢れ出す。その想いに突き動かされるままに、彼はスーリャの唇をついばんだ。
何度も、繰り返す。
軽く、そっと確かめるように。
スーリャは抗わなかった。
自分の腕の中でおとなしくしているスーリャを少し不思議に思いつつも、シリスは口付けを深くしたのだった。



熱のこもった吐息が、静かな室内に響く。スーリャはいつの間にかシリスによって長椅子に押し倒されていた。けれど、そんな己の状態に気を回せる余裕はなく、彼はシリスの口付けに酔っていた。
離れた唇の間で、唾液の糸が引く。スーリャは身をぐったりと長椅子にあずけて、その唇から熱のこもった吐息をもらすだけだ。
シリスの唇はそんな彼の首筋に移動し、その手は衣の合わせ目へと伸ばされる。そっと割って入ってきた彼の少し体温の低い手が、スーリャの素肌をそっと撫でた。
ざわりと背筋を駆け抜けた感覚。
それは紛う方なき快感だった。けれど、それがスーリャを我に返らせた。
正気に返った彼は、とっさにシリスの首の後ろで一つにまとめられていた髪をぐいっと引っ張る。

「ッ!」

かなり痛かったらしく、スーリャの首筋から顔を上げたシリスは顔をしかめていた。どことなく不満そうなその瞳を、スーリャが睨みつける。
「何やってるんだよ」
「何って……この状況に口で説明する必要があるか?」
とぼけたような答えに、スーリャが半眼になる。自分の上にのしかかっているシリスを、なんとかどかそうと腕で押し返すが上手くいかない。
「俺の上から退け!」
息を整えて、スーリャはシリスに怒鳴った。
そこにいたのは今までの甘さを払拭した、普段通りのスーリャだった。

潤んだ瞳と艶やかな赤い唇が接吻の余韻を残しているが、不機嫌をまったく隠しもせずに眦をつり上げている彼に、これ以上の事を仕掛けるつもりはさすがのシリスもなかった。
言われるままにスーリャの上から退けば、彼は素早く起き上がり、乱れた衣を正して、シリスから距離を置くように窓辺まで移動する。
「そこまで警戒しなくても、今日はもう何もしない」
シリスが苦笑した。

「……なあ、なんであんたは俺にこういうことをするんだ?」

スーリャはシリスに背を向け、庭に視線を向けながらずっと訊きたかったことを問う。だから、その時シリスがどんな顔をしていたか知らない。
笑みを消し、真剣な顔でスーリャの背中を見つめるシリスの瞳の奥には、先程の名残りである愛欲の欠片と、狂おしく彼を求める愛情が揺らめいていた。

「スーリャが好きだから」

さらりとシリスはスーリャが求めていた答えを口にし、言葉を続ける。
「だから、すべてが欲しい。その身も、心もすべて。欠片一つ残すことなく」
ビクリとスーリャの肩があからさまなほど揺らいだ。
「無理強いするつもりはないし、急ぐつもりもない。だから、そんなに怯えるな」
シリスは彼にわからないよう小さくため息をつく。
スーリャからの確たる拒絶はない。けれど、それだけだ。
嫌われているとは思わないが、かといって、そういう対象として好かれているかといえばなんとも答えようがなかった。
「……返事は急がないと言ったのは俺だからな」

シリスが自嘲気味に呟いた言葉を耳にして、スーリャは慌てて振り返った。
彼の告白で真っ赤に染まった顔を隠すことも忘れていた。幸い、夜の闇と逆光でシリスにそれが見えることはなかったが。
「えっと、その……」
言いかけはしたものの、それらは言葉にならない。
自分の素直な気持ちを伝える覚悟がまだ、スーリャにはできていなかった。
俯いたスーリャを恐がらせないように、シリスはゆっくりと近く。そして、彼の前に立ち、ポンポンと宥めるように頭を軽く叩いた。
「気にするな。子供は眠る時間だ……おやすみ」

パタンと扉の閉まる音がし、ひとり部屋に残されたスーリャは、
「……あんたが一番、俺を子供扱いしてるってわかってるか?」
悔しそうに唇を軽く噛む。
問うべき人物はもうここにはいない。
さっきの行為だって嫌ではなかった。ただ、確たる言葉もなく流されるままなのが嫌だっただけ。それだから拒んだだけで、心はもうシリスに囚われている。
確かにあの先に進むのは恐い。けれど、シリスなら構わなかった。
スーリャは割り切れない思いを吐息に変え、

「シリスが好きだよ」

小さく呟いた。
今はこんなに簡単に出てくるというのに、さっきは声にすらならなかった想い。
聞く者のいない告白は、室内に淋しく消えたのだった。





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2006/09/17
修正 2012/02/03



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