天の審判者 <30>



翌日。
昨夜の騒動などおくびにも出さずフィルズはいつも通り現れ話をし、シリスもそれに合わせるようにそのことにはまったく触れなかった。そうしてこの話は互いの間で本当に無かったこととして処理されたかに思えたのだが――。

最終日。
会合も終わり解散という雰囲気の中で、フィルズがシリスに話掛けてきた。
「今後ともよろしくお願いします」
差し出された手に、まさかそのような態度に出られるとはまったく予想もしていなかったシリスは一瞬瞠目したが、すぐににこやかな笑顔に変えて手を取った。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
フィルズの顔は相変わらず無表情で何を考えているのか読み取ることはできなかったが、無下にする必要はまったくない。
シリスの望みは、二つの国の均衡が崩れないこと。
それは初めから変わっていなかった。ただ、相手が牙を向くようなら、それをへし折る気でいるだけで――。

「次の会合の時も、あなたが来てくださるとこちらとしてはありがたいですね」
「……皇帝補佐殿にそう言っていただけて光栄です」
予想外の言葉に、反応が一拍遅れた。
それを気にした風でもなく、フィルズは言葉を続ける。
「私はあなたが気に入りましたから。次の会合もあなたが相手でしたら、私が来ましょう」
意味ありげな言葉をどうとらえればいいのかわからず、困惑も露わに固まったシリスをフィルズがニヤリと笑った。
初めてまともに表情を変えた、その鮮やかな変貌にシリスの表情が引きつる。無表情の仮面を拭い去った、これこそがフィルズの本性だと彼はその瞬間悟った。見事な仮面の被り方に、してやられた感が胸中を渦巻く。
そして、すれ違いざま耳元で囁かれた言葉に、シリスの表情が驚愕に変わった。まさかという思いがその内を巡る。

急に様子のおかしくなった彼に、肩を軽く叩いてデイルが呼びかけた。
「大丈夫か?」
心配そうな彼を他所に、シリスが声を上げて笑い出し、
「次の会合も俺が来よう」
去っていくフィルズの背中に地のままで声を掛けた。
フィルズは足を止め、鮮やかな笑みをその顔に浮かべて振り返り、
「楽しみにしている」
一言そう残して去っていった。
取り残されたジーン王国の一行は、シリスの言動の意味がわからず困惑した様子でそれぞれの顔を見合わす。シリスは笑いながら、先程耳元で囁かれたフィルズの言葉を思い出していた。

『お互い、王として』

その簡潔な言葉は、重大な意味を持つ。
シリスの正体が王だとやはりばれていたことも然ることながら、フィルズは自らがヴィア帝国の皇帝だと正体をさらしていったのだ。
これほど愉快なことはそうそうない。相手として不足もない。
もしかしたら良い関係が築けるかもしれない。
見えてきた別の指針に、シリスの心は自然と明るくなった。



こうして無事に会合は終わり、一時期険悪になりかけていた両国の関係がとりあえず修復に向かって動き出し、シリスは行きよりも軽い気持ちで岐路についていた。
王宮のある王都まで、レグイアからかかる日数は馬で四日。
あと一日も馬を走らせれば王宮に着く位置まで戻ってきた所で、珍しくリマの方から連絡があった。それは、王族専用の会話方法だった。

『シリス! 緊急です。今、どの辺りにいますか?』
ちょうどあてがわれた部屋に入り、とりあえず荷物を下ろして少し休もうかと思っていた所に呼ばれ、その珍しくもかなり切羽詰った声に驚いた。
「今、王都まであと一日といった所で宿を借りたんだが、何があった?」
『スーリャが襲われました』
その簡潔な言葉は、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃をシリスに与えた。色々な思いが交差する中でなんとか冷静さを保ちながら、一番気がかりなことをまずは問う。
「怪我は?」
『自分で撃退したらしく無傷だそうです。今は気絶したように眠っていると母から連絡がありました』
とりあえず安心できる報告に、シリスは詰めていた息を吐き出した。

『直接的な犯人は用心を重ね牢に拘束して入れてあるのですが、ラシャの話によるとどうやらスーリャの反撃に室内から窓の外まで吹き飛ばされたようで、いまだ話を聞ける状態ではありません。依頼人を割り出すには、少し時間がかかりそうです』
「吹き飛ばされた?」
引っかかりを感じて、シリスが訊き返した。
『ええ。そう言ってました。スーリャの身体を白色の不思議な光が取り巻いたと思ったら、次の瞬間には彼の傍まで迫っていた男が外で伸びていたそうで。間違いないと』
「ラシャがそう言ったのか?」
衝撃を受け、うめくような掠れた声で訊ねたシリスに、
『ええ、そうです。どうしました?』
リマがいぶかしげな声で訊ね返した。

それがどれほど異様なことか、術を使わないリマに説明しても正確には理解できない。シリスの身近でそれが理解できるのは、ナイーシャだけだろう。
今頃、彼女も難解な顔をして考え込んでいるに違いない。
「なんでもない。それでは襲われた理由も正確にはわかっていないんだな?」
時間を無駄にしないよう、別の話題を振る。
『ええ。ただ彼が襲われる可能性は一つでしょう。あそこは奥宮。先王の妃であり、守護師の位を受け継ぐナイーシャの住む不可侵の宮。本来なら立ち入りもできないはずの宮に侵入できた原因は調査中ですが、そもそも彼女に牙を向くほどの理由などそうそうありえません』
考えるまでもなくシリスは結論を出した。
「わかった。今からそちらに向かう。夜通し駆ければ、明日の朝には着くだろう。詳しい話はそれからだ。それまでにできるだけ判断材料を増やしておけ」

『わかりました。気をつけてください。単独行動はダメですからね。デイルだけでも一緒に連れてきてください』
今までの緊迫した会話を打ち壊す、リマの子供に言い聞かせるような緊張感に欠けた言葉のせいで、シリスはどっと疲れを感じた。
思わずその場でへたり込みたくなる。けれど、気力を振り絞って行動に移ったのだった。

荷を担ぎ直し、デイルに簡単に事情を説明してから行こうと扉を開けた。すると、そこには今会いに行こうと思っていたデイル本人が立っていた。
「なんだ、いたのか」
部屋に入ったままの姿でまた出てきたシリスを、デイルが思案気に見ていた。
「そこにいたらなら俺の声は聞こえていたよな? そういうことだ。俺は今から急いで戻るから、おまえ達はゆっくり明日来い」
それだけを言って脇を抜けていこうとしたシリスの腕をデイルが掴む。
「何か起こったことはわかったが、俺がおまえ一人で行かせるわけないだろう。詳しい事情はあとでリマに聞くとして、緊急なんだな」
「ああ」
だから離せと目で睨みつけるシリスに、デイルがわざとらしく肩を竦めた。
「とりあえず、少し待て。俺も行く」
「おまえの部下に合わせていたら、明日の朝に着かない」
あくまで一人で行くと言い張るシリスに、
「だから、俺だけだ」
デイルは一歩も引かずに押し切った。
シリスの嘆息を了承の意ととらえて、部下への簡単な説明と自分の荷物を取りに行く。こうして二人の姿はその日の内に宿屋から消えたのだった。



早朝、言葉通りに王宮へたどり着いたシリスを待ち構えていたのは、予想外の理由だった。
一通り報告を受けた後、その足でスーリャが寝かされた部屋に向かう。
あんなことがあった後なので、とりあえず奥宮内の別の部屋に彼は移っていた。少し眉をひそめて眠るスーリャの顔を眺めながら、シリスはため息をつく。
「とうの昔に方は付いたものと思っていたんだがな」
そう思っていたのは、本人とその周りの数人だけだったらしい。
スーリャに手を伸ばし、額にかかった髪を払う。
その動作に人の気配を感じ取ったのか。彼の閉じられた瞼がゆっくりと上がり、静かな湖面のような蒼い瞳が現れた。





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シリスの動向その5。やっと25話の続きに――。
2006/08/04
修正 2012/02/02



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