天の審判者 <3>



近くで何やら話す声が聞こえてくる。
声から察して、男の二人組。
心地良いまどろみを壊すそれに、少年の意識は自然と浮上した。
半覚醒の状態でうつらうつらしながら、少年はなんとはなしにその話を聞いていた。

聞いたことのない言葉。でも、理解できる言葉。
懐かしい気がして、少し不思議に思った。
けれど、話の内容が理解できない。頭で意味を理解する前に滑り落ちていく。
ただ頻繁に発せられる単語だけが耳に残った。

審判者。

たぶんとても重要なことを意味している言葉なのだろう。
けど、それはいったい何?
少年が目を閉じたまま、ぼんやりしたまったく回らない頭で考えていると、
「狸寝入りのお姫さま。目を開ける気はあるかい?」
急に鮮明に聞こえてきた、笑いを含んだ声がそう言った。

狸寝入り? お姫さま……って誰に言ってるの?
そう少年が考えている間にも緩やかに漂っていたまどろみは抜けていき、だんだん意識がはっきりしていった。
ふわりと風が動く。
それに無意識に少年がピクリと反応した。

「なかなか起きない眠り姫には王子さまの目覚めのキスを。って、どこかの国にそんな話があったかな。柄じゃなくても昔は俺もそうだったわけだし、試してみる価値はあるかもな」
さっきよりも間近で聞こえた声。
たぶんかなり至近距離で話しているのだろう。
涼やかな美声に聞き惚れる余裕もなく、少年はそれに違和感があった。微かにその顔がしかめられる。間近で小さな笑い声が聞こえてきて、これはおかしいと少年はやっと理解した。
なんとなく身の危険を感じてガバッと目を開く。
そして、拳ひとつ分ぐらい先に誰かの顔があってギョッとした。少年の心臓が走った後のように早いリズムを刻む。



一番初めに飛び込んできたのは、鮮やかな一対の金色。
吸い込まれそうなそれにのまれて、少年は身動きひとつ出来ずに見つめる。
そうしてどのくらいの時が経ったのか。
たぶん実際はそれほど長い時間が経ったわけではないだろうけれど。
目の前の顔が本当にうれしそうに笑った。

「おはよう、眠り姫」

えっ? と思う間もなく近かった顔がさらに近づき、額に何かがそっと触れるような感触を残して離れていった。
少年は何から驚いていいのかわからずに混乱する。

え? ええ? 何!?
っていうか、ここどこ? この人、誰?
えええぇぇ〜〜〜〜〜?

金縛りが解けたように少年はガバリと勢いよく起き上がろうとし、出来ずにベッドの中で身動きする。
落ち着かなげに横になったまま、辺りを見回した。
「シリス……。あなたのせいで余計に混乱しているじゃないですか」
困ったような、呆れたような声がしてそちらを向けば、薄茶の髪に翠色の瞳を持つ青年、リマが微笑んでいた。

リマは少年の上体を起こし、枕とクッションらしき物を調節し、居心地いいように仕上げて、そこに少年の背を預けさせる。
少年は訳がわからずされるがまま、困惑した表情で彼を見た。
「すみませんね。この人、気に入った相手はとことん構い倒す性格をしているので……多少のことは大目に見てあげてください。目に余るようでしたら、私に言ってくださればしばき倒しますから」
後ろに下がり、シリスの斜め後ろに控えたリマはにっこり笑いながら、穏やかな声で平然と物騒なことを言う。
その意味を理解するのに少年はしばしの時間を費やし、パチパチと瞬きを繰り返すのだった。

「……おまえ、本当に俺をなんだと思ってるんだよ」
シリスがぼそりと呟き、咎めるようにリマを振り返る。
「何って、あなたはあなたですよ」
返ってきた答えは、素っ気なく簡潔なものだった。
「いや、そうじゃなくて……」
どう言い返したら良いかわからず、シリスが唸ると、
「なんですか。いつまでも子供みたいに他人を困らせ、振り回し、他人事みたいにそ知らぬ顔をしながら、実は渦中にこっそり紛れて好き勝手して、周りをヤキモキさせている、とでも言って欲しいですか?」

「………」
シリスはピタリと口を噤み、渋面を作った。
「まだまだありますけど……言いましょうか?」
平然とその顔を見返して、リマが訊く。
「……いや、いい」
互いに顔を見合わせることしばし。シリスが吐き出すようにため息をつき、首を振った。これ以上、自ら墓穴を掘りたくない。
「そうですか。残念です」
本気で残念そうなリマの態度に、シリスはもう一度ため息をつく。
それは、深い深いため息だった。



「まあ、とりあえずはこの辺でお説教は止めましょう。審判者さまも驚いているようですし」
二人の会話の間中、キョトンとしていた少年は、話を振られたことでハッとなり、リマを見た。
審判者。
半覚醒の状態で頭に残っていた単語だ。
「……あの、審判者って俺のこと? そもそもあんた達は誰?」
初めて口を聞いた少年に対し、リマは安心させるように微笑んだ。
「すみません。自己紹介もしてませんでしたね。私はサリエニア・リマ・ジーンクスと申します。リマとお呼びください。以後、よろしくお願いします。そして、こちらが――」
「ルイニ・シリス・ジーンクスだ。シリスでいい。よろしく」
人好きのする笑顔で、シリスも微笑む。その金色の瞳がやさしい光を宿していた。

「……ジーンクス?」

少年がぽつりと呟く。
二人の顔を見比べて、首を傾げた。
同じ姓を持つので血縁者なのかと思ったが、その顔からはほとんど似たような印象を受けない。

小さな呟きを耳にしたシリスは少し首を傾げ、少年の表情から言いたいことを察し、頷いた。
「あまり似てないだろうが、リマは俺の叔父だ」
その言葉に少年の首がよりいっそう傾げられた。
それに苦笑をもらし、シリスが言葉を続ける。
「リマは親父の年の離れた腹違いの弟なんだ。外見は同じ歳ぐらいに見えるだろうが、これで俺より八つも年上だ。若作りなんだよ」
とりあえず納得できたので、少年は小さく頷く。
その時、リマが小さく底冷えしそうな声で、「後で覚えてなさい、シリス」と言ったことは聞かなかったことにした。

「俺は――」
相手だけ名乗らせることは失礼な気がして、少年は口を開いた。
けれど、そこから言葉が続かない。
シリスもリマも少年の言葉の続きを待つように、静かに彼を見つめていた。

「……誰だった?」

困惑した表情で、少年は言葉を吐き出した。
小さな呟きを拾ったシリスとリマがお互いの顔を見合わせる。
「……もしかして記憶がない、とか?」
シリスの問いに、少年は曖昧にゆるく首を振った。

「ここは俺がいた世界じゃない。今使っている言葉も俺がいた場所の言葉とは違う。それを俺は知っている。でも、なぜ知っているか思い出せない。俺がいた世界がどういう所だったかの記憶はある。だけど、俺が誰だったか。そういった俺自身のことは思い出せない。忘れたんじゃないんだ。だけど、思い出せない。たぶんまだ思い出さなくて良い時なんだ」
自分の記憶をたどるように、ポツリポツリと少年が言葉を紡ぐ。
「どうやってここに来たかもわからない。……金色。あの時、水中で見たのはあんたの瞳だった? もしかして俺、溺れてたのをあんたに助けられた?」
「ああ……まあ、な」
シリスの歯切れの悪い返答を気にした風もなく、少年は笑んだ。
「ありがとう。あんたがいなかったら、あのまま沈んでた」

取り乱したのはほんのひと時で、すぐに落ち着きを取り戻した少年の姿に困惑しながらも、シリスは確認する。
「忘れたのとは違うのか?」
それに少年は少し考えてから頷いた。
「違う。自分のことだけ今はすっぱり思い出せないけど、俺は知っている。覚えている。だから、忘れたとは言わないと思う。たぶん思い出す時がきたら、自然と思い出す気がするんだ」



シリスは小さく息を吐いた。
「……とりあえず、名前がないと不便だよな。まさか審判者って呼ぶわけにもいかないし。そうだな―― スーリャでいいか?」
「……スーリャですか?」
少年は無言で頷き了承したが、意外そうな声が別の所から上がった。
事の成り行きを見守っていたリマだ。

「そう。スー・リャ。古代語で、意味は『空の・祝福』。別に変でもないだろ。空から降ってきたんだから、ピッタリじゃないか」
シリスが何か文句でもあるかと言いたげな顔を向ければ、リマは笑いを堪えるような顔をして「いいえ」と言った。
同じく笑みを含んだような声を誤魔化すように咳払いする。
「いい名前だと思いますよ。さすがに審判者と堂々とふれまわることは得策ではありませんし。私もスーリャさまとお呼びさせていただきますね」
「……『さま』はいらない。スーリャでいい。俺、偉くないし」
少年、スーリャのきっぱりとした言い分に、リマは苦笑を浮かべた。

口を開き何かを言おうとした所で、それをシリスが遮る。
「偉くないかどうかは、とりあえず置いておいて。リマ、おまえも俺のことをとやかく言えないぞ。自分の立場がわかってるか? おまえが相手を身分が高い者のように特別扱いすれば、必ずその扱いを勘繰る者も現れる。そうすればいずれスーリャが審判者だと気づく者も現れるだろう。それはこちらの都合上、非常にまずい。わかるだろう?」
「……ええ。わかります。わかりました、スーリャと呼ばせていただきます」
深いため息の後、観念したようにリマは言った。それは幾分苦い声のように聞こえた。





*************************************************************
2006/06/04
修正 2012/01/16



back / novel / next


Copyright (C) 2006-2012 SAKAKI All Rights Reserved.