天の審判者 <27>



その夜。
こういう時のためにある建物の、使者である自分のために用意された一室にシリスは一人でいた。ベッドに腰掛けて緩く組んだ手を額に当てて、集中するために目を閉じる。
室内はあらかじめ遮断しておいた。
これでこの部屋で話される声は外にもれない。

「リマ」
ここにはいない人間の名前を呼ぶ。
まるで呼べば返事が返ってくるかのように。
『予定通り着きましたか?』
シリスの頭の中に、リマの声が響いた。
「ああ。街の近くで襲われたが、全員無事だ」
『襲われた? ヴィア帝国の者ですか?』
「さあな。確たる証拠は出なかった。もしかしたら別口かもしれないとデイルは言っていたがな」
『そうですか。とりあえずこの件は保留にしておきましょう。調べてみます。その他に何か変わりはありましたか?』
「いいや。特にない。そっちはどうだ?」
『大丈夫ですよ。ザクトさまも留まって仕事を手伝ってくださいますし。まだ、王の不在に気づいた者はいないと思います。もともとあなたは神出鬼没な所がありますし』
遠回しに非難するリマの言葉に、シリスは小さく笑った。
たぶん今、彼は苦く顔をしかめていることだろう。

『それでですね。宮廷内に新たな噂が出回り始めたようで、こちらはとんでもなく早い勢いで広まっています』
「噂? それが何か関係あるのか?」
いぶかしげに問えば、リマの笑みを含んだ声が返ってきた。
『原因はあなたです。内容、聞きますか?』
実に楽しげな様子が声から伝わってくるだけに、シリスは何か心当たりがあっただろうかと考える。ここ最近はそこそこ大人しく真面目に仕事をしていたはずだ。
「何かあったか?」
『陛下がついに妃を迎えるかもしれない。お相手は奥宮に秘された方だ、と。そう言った内容の噂が、今、はびこってるんですよ』
「………」
シリスは黙った。リマの言葉を幾度も頭の中で反芻して考える。
「……どうしてそんな噂になってるんだ?」
妃うんぬんは完全なるデマだ。
けれど、奥宮に秘された方と示されるのは、スーリャしかいない。
なぜ彼の存在が明るみになっているのか。

『シリス。スーリャが寝込んだ日のことをよく思い出してください。あの日、あなたは堂々とその身をさらしていたんですよ。母とラシャに聞きましたが、大騒ぎだったそうですね。そんなことをすれば、奥宮とはいえ人目につきます。あなたはただでさえ目立つんですから』
そこまで言われて、シリスはやっと自分の失敗に気づいた。
あの時はそこまで気を配る余裕がまったくなかった。あとで冷静さに欠けていたとは思ったが、やはりかなりなものだったらしい。
今の今までそのことに気づいていなかった。
「それにしても、妃だなんて飛躍しすぎじゃないか?」
『それはどうでしょう。私は現場にいなかったのでわかりませんが、よほど切羽詰った表情でもしていたんでしょう。見ている方が王の大切な方だと思えるくらいに』
揶揄するリマに、バツが悪くてシリスは黙った。

これからかけるだろう多大な迷惑を思い、宮を出る前にリマにはすべてを話してきている。国を支え王を支える宰相である前に、リマはシリスの叔父だ。
そして、今では唯一の血縁者であり、自分の良き理解者でもあった。
「……スーリャは男だぞ」
ぼそりと呟かれたシリスのささやかな反論は、
「そうですね。でも、あの方の場合、外見を少し見ただけでは男性と判断できませんから」
あっさりとリマに一蹴された。
スーリャに聞かれたら怒り狂いそうな発言だが、この会話を聞く者は誰もいない。

「スーリャの耳には……?」
『いつも通り、入っていませんよ。その点は最善の注意を払っています』
これがもしスーリャの耳にでも入ったら、どんなことになるか。
シリスにはまったく予想もつかなかった。
『それでどうしましょう。今、これを打ち消すのはかなり難しいと思います。人の噂も七十五日といいますし、しばらくは覚悟してくださった方が良いと思いますよ』
「……下世話なことだ。ほっといてくれればいいのに、まったく」
シリスはため息をついた。
『それは無理ですよ。王の相手ともなれば、誰だって関心を持ちます。特にシリスは今までそういう相手を誰も作ってこなかったんですから』
おかしそうに笑う声まで聞こえてきて、シリスはもう一度ため息をついた。
『それでは今夜はこの辺で。シリスなら大丈夫でしょうけど、くれぐれも怪我なんてしないでくださいね。あと加減も忘れないでくださいよ』

リマとの会話が途切れて、シリスは目を開けた。
数回瞬きして、ばったりと後ろに倒れ込む。
王族間だけでできるこの会話方法は便利だと毎回思う。
時間差も出ないし、形も残らない。他人から見れば独り言に思われるが、遮断してしまえばどうということもない。
これといって疲れる作業でもないのに、今日は異様に疲れたような気がして、シリスは手で顔を覆った。
「うかつだった」
ぼそりと呟く。
まさかそんなことでスーリャの存在が明るみになってしまうとは思わなかった。
これでは奥宮に隠していた意味が半減してしまう。
時期を見て、審判者だという素性は隠して彼を表に出そうと考えていた。けれど、予想外の出来事に予定を少し変更する必要がありそうだ。
どうするか考える必要があったが、とても今の心境でいい考えが思いつくとは思えず、シリスはそのことを保留にしたのだった。

思い出されるのは、コロコロと表情のよく変わるスーリャの顔。
今頃どうしているだろうか。毎日、平穏無事に過ごしているだろうか。
リマの報告にはもちろんスーリャのことも入っていて話は聞いている。
それでも自分の目で確かめられないのはもどかしい。
そう考え、シリスは苦い笑みを浮かべた。
ここに来たのは自分で決めたこと。今はこの街で片付けることだけに集中する。
そうして、長い間、この後の方針をどうするかシリスは考え込んでいた。



国境の街、レグイア。
ジーン王国とヴィア帝国の間にまたがって存在するこの街は、中立地帯。
両方に属する、自治の街だった。
今の所、この街を境に両国の間では不可侵条約が結ばれている。
交易の要所でもあるレグイアは、大きな賑わいを見せていた。
ジーン王国の豊かな資源の一部がこの街から外へと流れていくので、商人の街とも言われている。
ここでこういう会合が行われるのは、今回に限ったことではない。街を挟んだ二つの国がこの場で年に数回、両国間の仲を取り持つために会合は行われていた。毎年、日はまちまちだが、月はだいたい決まっている。
今回は時期が少し早かったが、原因は間違いなく例の審判者の噂だろう。
向こうは真偽を問いたくて、この場を設けたに違いない。

シリスはにこやかな仮面を被りつつ、相手を観察していた。
悠然とまったく隙のない様子で、目の前には年齢不詳に見える、たぶん自分より年上の銀髪碧眼男が腰掛けている。氷のように冷たく整った顔は無表情で、同じく感情をうかがわせない瞳がシリスを静かに見つめていた。
向こうも同じように相手を観察している。
そう思って、シリスは内心ニヤリと笑った。

「私は皇帝陛下の側近で補佐をしております、フィルズ・クルーと申します。どうぞお見知り置きのほどを」
言葉は丁寧だが、その声もまた感情をうかがわせない平坦なものだった。
予想以上の大物が話し合いの場に現れ、表面には出さずシリスは驚いた。
言われてみれば確かにその地位にあるだけの存在感を目の前の男は持ち合わせていると納得する。
「ルウ・マグノアです。宰相補佐の任についております。若輩者ですので、お手柔らかに願います」
相手が名乗ったのに、こちらが名乗らないでは礼儀に反する。
シリスはこういう時のために作っておいた宰相補佐の地位と偽名を使った。
ルイニの名をそのまま使うのでは正体がばれてしまう。かといって、シリスの名を誰彼に呼ばれるのは不愉快以外の何物でもない。
そうして決まった名が、ルウ・マグノア。
マグノアは母方の姓だ。
フィルズは顔色一つ変えることなく、シリスの言葉を受け止めたのだった。

こうして両国の話し合いは幕を開けた。





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シリスの動向その2。
2006/07/29
修正 2012/02/02



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