天の審判者 <25> |
シリスは断言通り、次の日から来なくなった。 最初は来なくなって清々したと思っていたスーリャも、二日、三日、……、一週間ともなればやはり気になり、ナイーシャに彼の行き先を問えば、 「国境まで行くって言ってたから、早くて二週間。遅くても一月くらいで帰ってくるでしょ。そんなに心配しなくても、あの子なら大丈夫よ」 とにっこり笑顔で答えられ、何をしにそんな所まで行ったのか訊けなくなってしまった。 別に心配なんてしてない。 ただ。ただ……なんだろう。 言葉が見つからずに、スーリャは途方に暮れた。 心の中がモヤモヤする。それはこの間感じていたモヤモヤによく似ていた。 否、たぶん同じものだろう。 シリスがいなくたって、自分の生活は変わらない。 ただ彼と話す時間がなくなっただけ。 それは他愛も無いことであるはずなのに、どうしてこんなに――。 淋しい。 ふと浮んだ言葉を打ち消すように、スーリャは頭を振った。 収拾のつかない思いを抱えたまま。 シリスがスーリャの元を訪れなくなって三週間が経った。 シリスの目の前で行なった防壁を皮切りに、この三週間でスーリャは自在に力を使えるようになっていた。この件に関してはもう教えられることはない、とナイーシャのお墨付きまでもらっている。 最低限、自分の身は自分で守れる。 今はまだ奥宮内でしかないけれど、近い内に外にも出れるとナイーシャは言った。けれど、それを心から喜べない自分がいる。 そして、気がつくとシリスのことを考えていた。 いてもいなくても自分を振り回す存在。 闇夜に浮かぶ月の光を窓越しに浴び、スーリャはそっと吐息をもらした。 シリスが現れない。 たぶん、まだ帰ってきていないのだ。 ナイーシャも早くて二週間。遅くても一月くらいと言っていた。 まだ三週間。もうじき帰ってくる、はず。 そうしたらたぶん、また現れる、はず。 「ちょっとって言ったくせに、何やってんだよ」 零れた独り言は、誰に聞かれるでもなく静かな夜の闇に消えた。 二度と来るなと言ったのは自分なのに、また普段と変わらない様子で現れるシリスの姿を期待している。 自分の気持ちがわからない。ただ、モヤモヤとした想いだけが育っていく。 それがとてももどかしくて。どうしようもなくて、段々ムカムカと腹が立ってきた。 なんで自分がこんなに悩んでいるのか。 それもこれも全部、現れないシリスが悪い。全部シリスのせいだ。 その思いは立派に八つ当たりだった。 そんな時、視界の端で何かが動いた気がした。それが何か見極めようと、スーリャは目を凝らす。うっかり庭に紛れ込んでしまった動物かと初めは思った。けれど、それにしては大きい。 スーリャはハッとした。 あれは人間だ。闇に紛れるように黒の装いをした、人間。 こんな時間に、こんな場所で、そんな装いをする人間がいる理由は唯一つ。 あの人間は審判者である自分を殺しにきたのだ。 それがスーリャの出した結論だった。 たとえ当の本人に見つけられたという間抜けだとしても。 「シエル」 スーリャは小さな声で呟き、自分の周りに防壁を張った。 何物をも通さない、堅牢な見えない壁。 これがあれば、とりあえず大抵の物は防げる。 「そこのあんた、俺の命でももらいにきたの?」 スーリャが声をかけると、黒い影がゴソリと動いた。 「あんたにくれてやるような命はないから、退散して欲しいんだけど―― やっぱダメか」 素早い動きで飛び出してきた影に、スーリャは眉をひそめた。 「リウ・フルール」 相手を拘束するための言葉を紡ぐ。けれど、狙いが外れたのか、避けられたのか。影は止まらず、スーリャに向かってきた。 窓辺にいるのは危険だと一瞬で判断して、スーリャが部屋の中心部まで下がった時。 バリンッ。 派手な音を立てて、窓ガラスが割れた。 そんな派手な音を立てたら、周りに気づかれるだろ。 自分が狙われているというのに、他人事のように場違いなことをスーリャは頭の隅で考えていた。 影は止まらず、スーリャの眼前に迫る。 「王の妃候補になった自分を恨むんだな」 ぼそりと掠れた声で呟かれた台詞。 振り上げられた刃が、月の光に反射してあやしく輝く。それを目で追いつつ、スーリャは身動きが取れなかった。 ただし、その理由は向けられた刃に恐怖したからではない。 呟かれた台詞が示す意味に、一瞬で頭が真っ白になったからだ。 今、なんて言った? 王の妃候補? シリスの? 誰が? 誰が、いつ、そんなものになったって、ぇえ! 審判者だからじゃなくて、王の妃候補だから殺されるのか。 理不尽だ。 そんな理由で殺されるなんて恥だ。 男がそんなものになれるわけないだろうが。 まったくどこに目ぇつけてる。 そんな理由で死んでたまるか! 様々な思いはスーリャの頭を駆け巡り、ある一点へと帰着する。 それは強烈な怒りの感情。彼の中で何かが切れた瞬間だった。 ただでさえ鬱屈が溜まっていたというのに、それに輪をかける言葉を聞けば、これも自然の摂理。 被害者は自業自得の暗殺者一人。 刃が触れる寸前で、スーリャの身体を朧げな白色の光が包み込む。 それは印象とは裏腹に、烈火のごとく彼に襲いかかった影を窓の外まで弾き飛ばしたのだった。 「ふっざけるな! 俺は――」 残りは言葉にならず、スーリャは昏倒した。 窓の割れる音を聞きつけたラシャが慌ててスーリャの部屋に駆け込むと、剣で今にも斬られそうな彼の姿が白色の光に包まれ、その光によって男が外まで弾き飛ばされる光景が目に入った。 一瞬何が起きたのか理解できずに入口で立ち尽くしたものの、すぐに自分の役割を思い出し、倒れたスーリャに駆け寄る。 どこかに異常はないかと確認して、スーリャがただ単に眠っているだけだとわかって安堵した。 ラシャのすぐ後に現れたナイーシャは、部屋の惨状に息をのむ。 派手に割れた窓と、外でピクリとも動かない不審者。 気絶しているのか、眠っているのか。 見た感じでは怪我のなさそうなスーリャと、彼を抱き起こそうとしているラシャ。 とりあえずスーリャをラシャに任せ、ナイーシャは不審者を確認しに行く。 暗闇の中、遠目でははっきりとはわからない。 まったく動かない様子が芝居かどうかも判断できず、用心のためにナイーシャは拘束するための言葉を紡いだ。一度では成功せず、二度、三度と繰り返すうちになんとか拘束ができる。 何か作用しにくくなるような物を身に着けているのだろうと考え、ナイーシャは警戒しながら近づいた。傍らまで行って上からのぞき込んでも、男はまったく動かなかった。 不審者は完全に意識を失っているようだ。 そう判断したナイーシャは、男の様子をそのまま観察する。 擦り傷は多数あったが、致命傷となるような大きな怪我はまったく見つからない。男の側では、月の光を反射して鈍く光る剣が地面に突き刺さっていた。 不審者はスーリャの命を狙った者。 暗殺を生業とするものだろうと、ナイーシャは判断した。 誰がこの奥宮に、スーリャに刺客を送ったのか、聞き出す必要がある。 でも、それは後だ。 今は自害されないようにした上で、監視つきで牢屋に放り込んでおけばいい。 騒ぎを聞きつけ、やっと現れた衛兵にナイーシャは命じたのだった。 地上の騒ぎを余所目に、ルー・ディナはため息をついていた。 「まったく。まさかあんなことで僕の力が暴発するとはね。この子は本当に予想外のことをするんだから」 目の前には、眠るスーリャの意識が横たわっている。 「僕が止めなければ、殺していたかもしれないんだよ」 自分が気絶させて連れてきたのだから、この言葉はスーリャに届かないとわかっていた。それでもルー・ディナは話し掛けることを止めない。 「君が僕の力を使うのはまだ早い。まだ君の気持ちが固まるまで。君が心の奥底から望んで、それを決めるまで。それまでは使ってはダメだよ」 ほんの欠片でも、彼の心にこの言葉が残るように。 ルー・ディナは語りかけ、スーリャの髪をそっと梳いた。 「……シリスが全部悪い」 寝言にしてはずいぶんはっきりした言葉に、ルー・ディナが目を見張る。まさか目を覚ましたのかと彼の顔を見るが、その瞼はしっかりと閉ざされたままだ。 ルー・ディナが苦笑する。 「たぶん、それが王さまの名前だよね。それほどに君の心を占める彼に、ちょっと妬けちゃうかな」 そして、ひっそりと呟く。 「いつかその王さまと話せる機会があったら、ちゃんと釘を刺しておかないとね」 フフフと不穏に笑うルー・ディナの姿を目撃する者は、幸か不幸か誰もいなかった。 |
************************************************************* 2006/07/26
修正 2012/02/01 |