天の審判者 <22>



自分の身に起きた出来事が理解できなくて、スーリャは困惑していた。
赤黒い羽に持つ、蝶を見ていた。
まるでそれに囚われるかのように、目が離せないでいた。
誘われるように手を伸ばし。
あと少しで手が触れると思った瞬間。
何かにすごい勢いで引き寄せられた。
止まる間もなく体勢が崩れ、気づいた時には誰かに強く抱き締められていた。

正直、何事かと思った。
絶対に放すものかとでも言うように強く抱き締められて、スーリャはどうすればいいのかわからず反応に困った。
自分を抱き締めていたのは、知らない人ではなく。
溺れた自分を助けてくれて、居場所を与えてくれて、忙しいだろうにそんな素振りはまったく見せずに毎日会いに来てくれていた人。
からわかれることはしょっちゅうで、スーリャが怒ってもいつも余裕の笑みさえ浮べながらかわすような。
少しスキンシップ過多な所もあって、それはスーリャをしばしば困惑させたけれど、それらとは何かが違う。

こんなシリスは、知らない。

身動きできずにスーリャはシリスに抱き締められていた。
そうしてどのくらいの時間が過ぎただろう。
やっと少しだけ緩められた腕の力に、そっと少しだけ離れて顔を上げれば、そこにはシリスの真剣な顔があった。やはりいつもと様子の違う彼に、スーリャの困惑は深まる。
確かに、何かが違う。
けれど、スーリャにはその何かがわからない。
困惑しきったその顔が、無意識にシリスの衣を握り締めた手が、彼の切羽詰っていた想いに拍車をかけたことに、スーリャは気づいていなかった。

顎に手をかけられ、シリスの顔がいやに近くにあるとぼんやり思った瞬間。
唇に何かが重なる感触に、スーリャは目を見開いた。
柔らかく、そして温かい。
シリスの唇が自分のそれに重なっていることを理解するのに、スーリャはかなりの時間を費やした。そして、理解した途端、混乱した。

これがいつものスキンシップだとしたら、性質が悪すぎる。
でも、その考えをすぐに否定する。
唇にされたことなど一度もない。
いつも額だった。
ここではない自分のいた世界の記憶に残る、テレビで見たような親が子供にするようなそれと同じ。
なら、これは何?
疑問に答えるかのように、スーリャの唇を割って温かい何かが入ってくる。

スーリャは恐慌状態に陥っていた。
自分の舌を捕らえ絡めて放さないそれは、シリスの舌だ。
それが信じられなくて、スーリャはここにきて初めて抗った。止めるように自由な手でシリスの胸を叩く。けれど、それはまったく意味をなさなかった。
より深くスーリャを求めるように、シリスの舌が口の中でうごめく。
「……ぅん……」
スーリャは自分の口から零れた声に真っ赤になった。
自分が出した声だとは思えない。くぐもった甘い声はまるで誘うで……。

渾身の力を振り絞って、スーリャはなんとかシリスの腕の中から抜け出した。
唇をググイと手の甲で拭って、シリスを睨みつけ、
「いきなり何するんだ! シリスの阿呆――!!」
スーリャは捨て台詞と共に、寝室まで駆け込んだ。
反射的に扉に鍵をかけ、スーリャはベッドに飛び込み、掛け布を被る。
何もかもが信じられなかった。
自分の身に起こった出来事が信じられない。
あんな。あんな――。
言葉にならずにもだえる。羞恥心で、その顔は見事に真っ赤だ。
シリスが何を考えていたかなんてスーリャにはわからない。けれど、それと同じくらい彼は自分の気持ちがわからなかった。

嫌、ではなかったのだ。
驚きも困惑もあった。

自由にならない身に。
わけのわからないシリスの態度に。
認めたくはないが怯えもあった。

だけど、嫌悪感はなかった。

なぜ?

考えてもわからない。
元々スキンシップ過多だったから、知らない間に毒されていたとか?
違う。それとこれは別なはずだ。
……たぶん。
そう言い切れない所が、ちょっと悲しい。
スーリャは頭を抱え、思考の迷路に陥りながら、ラシャが呼ぶまでベッドの上で答えの出ない想いに悶々と悩んでいた。



シリスは走り去っていくスーリャを追わずに、その背中が見えなくなるまで見つめていた。その顔に自嘲の笑みを浮かべて。
去っていく直前の、スーリャの顔と言葉を思い出す。

予想以上に艶やかな表情を見せたスーリャ。
潤んだ瞳で睨みつけ、頬を赤く上気させながら罵った声。
あれでは罵声というより、睦言のようだ。

そんな風にとらえてしまった自分に、シリスは呆れていた。
視線を地面に移せば、残骸となっていた何か、元の姿を取り戻し、夜空に舞おうとしている所だった。
その姿にシリスは嫌悪する。
生き物ではありえない、その性質。
何かわからないそれを消す術を、シリスは持っていない。
幾多の破片へと壊しても、それは時が経てばまた元へと戻ってしまう。
いくらやってもその繰り返し。
あまりにも不自然な存在は、蝶の姿でヒラリヒラリと舞って夜の闇に消えた。

「……シリスさま?」

声のした方を見れば、窓に手をかけて不思議そうな顔をしたラシャがいた。
開けっ放しの窓を閉めに来ただろう彼女に、シリスは苦笑を返す。
「そんな場所でいかがされましたか?」
訊ねられても、素直に答えることはできない。まさか本能に負けて、スーリャに無理矢理口付けたなんて言えるはずもない。
答えないシリスにラシャは首を傾げたが、それ以上は訊かなかった。
「スーリャはどうしている?」
「寝室に籠もっておいでのようです。夕飯には少し早いですが、お呼びしましょうか?」
スーリャと一緒に夕飯を食べていくかと訊ねたラシャに、シリスは首を振った。
「いや。今日は帰る」
スーリャも今は、自分に会いたくないだろう。
そう心の中で付け足して、シリスは彼が寝室に籠もっていることを幸いと、部屋を横切って廊下へと出たのだった。





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2006/07/20
修正 2012/02/01



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