天の審判者 <21>



スーリャの熱は半日ほどで下がった。けれど、彼はいつまで経っても目覚めることなく眠り続けた。丸三日眠り続け、四日目の今朝、目覚めたという知らせがシリスの元に入る。
今まで気になってちょくちょくと様子を見に行っていたが、あいにくと今日は物凄く忙しい。抜け出そうものなら、スーリャの元にたどり着く前に捕まり、リマの特大のお小言と増量された仕事が待っているのは想像に難くなかった。
それこそ本末転倒だ。
仕方なくしぶしぶ仕事をしていたのだが、そんな状態だから気もそぞろで――。
「シリス! 次はこれをお願いしますね!」
執務室にはいつにも増して、リマの叱責が飛び交っていた。

そして、夕刻。
ついにリマが深々とため息をついて、呆れたように言った。
「……まったく。もう今日はあがっていいですよ」
シリスは一瞬、何を言われたかわからなくて呆けた。
「そんな気もそぞろな状態でここにいられても迷惑です。あとは私がなんとかしておきますから、さっさとスーリャの様子でも見に行ったらどうですか?」
走り出るような勢いでシリスが執務室から出て行くのを見送って、リマは再度ため息をついた。
「まるで恋する男のようですね……」
ふと思ったことを呟いて、笑い飛ばせないことに気づく。
「まさか、ですよね」
否定しきれない自分の考えと、机の上にいまだ山積みになっている書類とに、リマは複雑な気分で暮れゆく窓の外の空を見上げたのだった。



同日の朝まで時を戻り。
気分はすっきり爽快。
よく眠った気がして目覚めたスーリャは、心配そうに自分を見つめるラシャと目が合って不思議そうな顔をした。
ラシャにそんな顔をさせるほど寝坊でもしたのだろうかと考え、
「ごめん、ラシャ。俺、そんなに寝坊した?」
とスーリャが訊けば、一瞬目を見張った後、彼女にしては珍しくクスクスと声を立てて笑い出す。
「おはようございます、スーリャさま。目覚めはよろしいようですね。お身体の様子がどこかおかしいとか、そんな感じはございませんか?」
ゆっくりと上半身を起こしたスーリャの背に、身体を支えやすいように大きめのクッションをいくつかあてがった。
「おはよう。ちょっとだるいだけで、別にどこもおかしくないよ。どうかしたの?」
クッションにゆったりと背を預け、スーリャは首を傾げる。
「スーリャさまは丸三日以上眠っておいででした。私はナイーシャさまを呼びにいって参りますから、そのままベッドから出ないでくださいね」
そう言って、うれしそうな顔をしてラシャは出ていった。あとに残されたのは、彼女の言葉を理解して呆然とするスーリャのみ。

丸三日だって?
いやによく寝たとは思ったけど、まさか三日も眠っていたなんて……。
絶対、ルー・ディナのせいだ。
今度会う機会があったら、文句を言ってやる。

顔と性格と呼び名がアンバランスで、基本的に天然ボケな青年を思い出し、スーリャは顔をしかめた。
それからナイーシャが現れ……色々大変なことになった。
なぜかナイーシャもラシャも、過保護なほどスーリャの世話を焼きまくるのだ。
もう大丈夫だと言っても、ルー・ディナのことを言っても、止めてもらえなかった。
丸三日以上眠っていて心配をかけた手前、強くは出られない。
結局、スーリャはこの現状を受け入れるしかなかった。

そして、夕刻。
二人が共に用なり仕事なりができて、やっと一人になれたスーリャはホッと息を吐き出した。
いまだここでの生活に完全に馴染みきれていないスーリャは、なんでも一人でできるわけではない。それでもあれもこれもと、必要以上に世話を焼かれるのはさすがに疲れた。
贅沢な話かもしれないが、慣れないスーリャには目覚めてからずっと気の抜けない時間だった。
これ幸いとベッドを抜け出し、庭に面した窓辺に近寄る。
空は茜色に染まり、端から徐々に藍色に染まってきていた。
そっと窓を開け、そこから庭へと降りる。
ここに来た日から、夜は絶対に外に出るなと言われ続けていたが、今は夕刻。
まだ大丈夫だろうと、軽い気持ちでスーリャは外へ出た。

少し湿り気を帯びた風が通り過ぎていく。
明日は雨かな。
そう思いながら首を巡らして―― スーリャは一匹の蝶を見つけた。
赤黒い色を羽に持つ蝶。
日が沈み、夜の闇が迫っているというのに、それはヒラリヒラリと優雅に舞っているように見えた。
少しづつ。少しづつ。
彼に近づいてくる。
まるで引き寄せられるかのように。
スーリャもまた、その蝶から目が離せずに、その場で立ち尽くしていた。



シリスは走っていた。
どうにも胸騒ぎがしてしかたない。先程までは、こんな感じはしなかったのに―― 自分で自分がよくわからなかった。
スーリャが目覚めたと知って、それを自分の目で確かめたくて、今日はずっと気もそぞろで仕事をしていた自覚はある。そんな状態だから、夕刻になったとはいえ、いまだ終わりそうにない仕事の山を前にしても、リマはシリスを執務室から追い出したのだろう。
その気遣いに感謝しながらも、その時まではこんな胸騒ぎは抱えてなかった。
それなのに奥宮に近づくにつれて、刻々とそれは大きくなっていく。
スーリャの身に何かあったのかもしれないという思いが頭をかすめて。
気のせいだ、大丈夫だと自分に言い聞かせながら、それでも彼の元へと急いでいた。

そうしてたどり着いたスーリャの部屋には、誰もいなかった。
それがよりいっそうシリスの不安を煽る。
庭に面した窓が開いていることに気づいて、シリスはそこから外へ飛び出した。
もしかしたらスーリャは外にいるのかもしれない。
そう思ったからだ。
そこで見つけたスーリャの姿に、安堵を抱いたのも一瞬。
シリスは彼の側に禍々しい雰囲気を持つ、あの蝶を見つけてぞっとした。

アレにスーリャを近づけさせてはならない。

その思いがシリスに行動を起こさせた。
素早くスーリャの元へ駆け寄り、彼を自分の方へ強引に引き寄せ抱き締める。
蝶は彼らから一歩半先の所で透明な何かにぶつかったかのように、ハラハラといくつもの欠片になって地面に落ちた。
その様子をシリスは冷やかな目で見つめていた。

とっさに張った、彼の防壁に当たって砕けた蝶。
否。蝶の形をした何か。

それは少しの間を持って再生し、何事もなかったかのようにヒラリヒラリとまた飛んでいくのだ。夜の闇に紛れるように。
奇妙な何かの残骸。けれど、それよりも今は腕の中にいる存在の方が気がかりだった。確かに腕の中にある生きている温もりに、一瞬にして凍りついたシリスの心が弛んだ。

失うかと思った。
この存在が自分の手の届かない場所に行ってしまうような気がして、どうしようもなく恐かった。これほどの恐怖を味わったのは、どのくらいぶりだろう。
もしかしたら初めてかもしれない。
そして、気づかされた。
愛しいのだと。
性別も互いの立場も関係ない。
今、腕の中にいる温もりが、どうしようもなく愛しくて離し難く失えない。
ルー・ディナが何を思ってスーリャをこの地に寄越したかはわからない。
唐突に現れた彼は、また唐突に消えてしまうかもしれない。
でも、側にいて欲しい。
どんな手段を使っても、閉じ込めて縛り付けてでも自分の元に止めたい。
そう思ってしまった自分を、シリスは嘲笑った。
自分もまた、愚かな唯の男だと。

溢れ出す想いのままに、シリスはスーリャを抱き締める腕に力を込めたのだった。





*************************************************************
2006/07/19
修正 2012/02/01



back / novel / next


Copyright (C) 2006-2012 SAKAKI All Rights Reserved.