天の審判者 <20>



まったく今日は厄日だ。
シリスは心の中でぼやいた。
途中でつかまえたラシャにスーリャの居場所を訊ねれば、今日はもう自室に引き上げたと言われ、
「まだお休みになってはおりませんでしょうが、長居はご遠慮ください」
とやんわりと諌められた。
今はもう、夜の帳の下りた時間。普通に人を訪ねるには、ギリギリの時だった。
シリスもそれがわかているから肩を竦め、黙って頷いた。

そうしてラシャと別れてスーリャの部屋を訪れたのだが、入室を求めても返事がない。いないのかと思って、鍵がかかっていないことをいいことに、勝手に入って中を見れば、当のスーリャは長椅子でお休み中だった。
スヤスヤと穏やかな顔をして眠るその姿を見ていると、今日一日の苦労を思い出して少し憎らしくなる。
ザクトの訪問は、そろそろだと踏んでいたから突然ではなかったが。
ナイーシャと手紙のやり取りをしていたのはともかく、その手紙の内容を曲解。
いやもしかしたら手紙の内容自体が曲解されていたのかもしれない。
とにかく、とんでもない誤解をしてくれたことに関しては参った。
あそこでリマが間に入ってくれなければ、どうなっていたことか。
考えるだけで、どっと疲れが押し寄せる。
とりあえず当面の話はできたので、良かったとは思うのだが――。

このままでは寝苦しいだろうと、シリスはスーリャをベッドに運んだ。
深く眠っているのか、まったく起きる気配はない。
もし起きていたら、思い切り抵抗をするだろう。
それを思って、彼は笑う。
そっとベッドの上に寝かせ、掛け布を肩まですっぽり隠れるようにかける。
あと少しだけ無防備に眠るスーリャの様子を見ていたくて、シリスはそっとベッドの端に腰掛けた。

こうしておとなしく眠っていると可愛く見えるよな。
しかも、少年というより少女。
でも、起きてる時はわめくし、怒るし、頑固だし。
せっかくの外見もこの中身では無用の長物かもしれない。
サラサラとした手触りの良い髪の感触を楽しみつつ、シリスはスーリャの頭を撫でる。
起きていれば、こんな風におとなしく撫でさせてもくれない。
それを思って、シリスは小さな笑い声をもらした。
知れば知るほど、スーリャは普通の子供だった。しかも、からかいがいのある子供。こちらの予想以上の反応をするものだから、ついついやりすぎてしまう。
まあ、最近は多少学習したようだが、それはそれ。

シリスはスーリャを気に入っていた。その存在を好ましく思っていた。
たとえ、彼が『天の審判者』だとしても。
国の命運云々の話を抜きにしても、シリスはスーリャを守ってやりたかった。
けれど、当の本人は大人しく守られてくれるような性格をしていない。
シリスはこの短期間でそれを見抜いていた。
それでも彼がまだおとなしく奥宮に留まっているのは、自分の置かれている立場を理解しているからだ。
ナイーシャについて自分で身を守る術を学んでいるが、今の所、成果は乏しいと聞いた。潜在的な才能はあるだろうが、こればかりは一朝一夕にできるものでもない。悔しそうな顔をしているスーリャを思い出して、シリスは笑みを深くする。

スーリャの存在はシリスの心を穏やかにする。
仕事に追われ、信用の置ける人材不足の中で、足元に付け込まれないよう対処する日々に、シリスは疲れていた。だから、彼が現れるまで脱走と称してたまに逃げ出していた。
リマが怒るのは、心配だからだとわかっている。けれど、それでもあの場所にずっと止まっていると息が詰まってどうしようもなくなる。
だから、結局また脱走する。
そして、リマがまた怒る。

シリスが王位に就いてから、その繰り返しの日々だった。
相変わらず人材不足は続いていたが、それでも初めの頃よりはだいぶ良い。
あと残っているのは、役立たずで、余分な所に知恵を働かせて尻尾をつかませない狸、または狐どもだけだ。
これはこれで厄介ではあるが……。
ちょうどそんな時にスーリャは現れた。
『天の審判者』という名前の、特大の爆弾を抱えて――。

毎日ほんの短時間ではあるが、スーリャと話すことはシリスにとって良い気分転換にもなっていた。
話す内容は他愛も無いこと。なんの気負いもない会話。
いつまでこんな穏やかな時が続くかはわからない。けれど、その日々が楽しくて、長く続けばいいと願ってしまう。
そんなことを考えてしまった自分に、シリスは自嘲した。
いつまでも続くわけがない。刻々と動き始めている事態が、それを許さない。
夕刻に入ってきた報告がそれを示していた。

ぼんやりとしていたシリスがスーリャの異変に気づいたのは、その時だった。
今まで穏やかな顔をして眠っていたスーリャが、急にうなされ始めたのだ。
悪夢でも見てうなされたのかと思ったが、どうにも様子がおかしい。
スーリャの額に手を当て、シリスはハッとした。そこは信じられないほど熱かった。

「ラシャ! ラシャはいないか!」

こっそりと隠れて訪れていたことなどすっかり忘れて、シリスは大声で叫んだ。
何事かと慌てた様子で、呼ばれたラシャが現れる。
「医者を呼べ。スーリャがすごい熱だ。あと冷やす物を。氷があるならそれも持ってこい」
シリスの剣幕にただごとではないと感じ取り、ラシャは踵を返した。
事は急を要する。
ちょうど近くにいた女官の一人に奥宮に控えている医者を早急に呼び、スーリャの部屋に連れてくるように頼み、もう一人の女官にはナイーシャにスーリャが熱を出したと伝えてくれるよう伝言を頼んだ。
そして、自分は冷やすための氷とつめたい水、それを入れる桶と布等を調達するべく足早に去ったのだった。



「それで原因は?」
スーリャの部屋には、シリス、ナイーシャ、ラシャ。そして、彼を見るために連れて来られた医者がいた。ラシャはスーリャの看病のために寝室に、他の三人は寝室の隣の部屋に居を構えて話をしていた。
突然うなされたと思ったら、発熱したなんて異常なことだ。しかも、その前まではいつもと変わらない様子だった。
シリスの険しい視線を受け、医者は首を振った。
「わかりません。これといって身体に異常はありませんし、毒のような薬物の反応もまったくありませんでした」
困惑も露なその表情に、シリスは怒鳴りたくなる気持ちをなんとか抑えた。
この医者を怒鳴っても、何も解決しない。
「……わかった。もう下がっていい」
低く唸るようなシリスの声に、ビクリと医者の肩が大きく揺れた。
「急にごめんなさいね。また何かあったら呼ぶと思うから、その時はよろしくね」
ゆっくりと一礼して、重い足取りで部屋を出て行こうとするその後ろ姿にナイーシャが労いの言葉をかけた。
少しだけ表情を緩め、扉の前で一礼して医者は出て行った。

「心配なのはわかるけど、どんな時でも礼儀は大切よ」
ナイーシャが咎めるようにシリスを見たが、彼は深刻な顔をして気づかない。
もしかしたらナイーシャの言葉すら聞こえていないのかもしれない。
彼女は深々とため息をつく。
「病から来る異常じゃないなら、私の方がわかるかもしれないわ。あなたも来る?」
ナイーシャはスーリャの眠る寝室へと入る。シリスも無言でそれに従った。

そこでは相変わらずスーリャがうなされていた。
ラシャが甲斐甲斐しく冷たい水につけて絞った、濡れた布でスーリャの額に浮かぶ汗を拭っている。
「熱冷ましは飲ませたのでしょう?」
「はい。それもどこまで効くかわからないと言われましたが……」
「効き目は――」
ナイーシャはスーリャの顔色を見て、
「あまりなさそうね」
嘆息するように呟いた。
「さて。この子の身体の内で何が起きているのか、見てみましょうか」
椅子を持ってきてベッドの隣に置き、ナイーシャはそこに座ってスーリャの右手を取った。以前、月の女神を示す不可思議な文様が現れた部分に手を触れ、目を閉じる。
そのまま彼女は動かなくなった。まるでスーリャの中を見透かすように。

そうしてしばらく経った後。
ナイーシャはぐったりとした様子で、身体を椅子の背もたれに預けた。
「何かわかったか?」
その様子をじっと見つめていたシリスが問い掛ける。
「ええ。たぶん原因はアレだと思うけど―― 私達の手に負えるものではないわ」
「手に負えるものではない?」
シリスの訝しげな声に、ナイーシャが頷いた。
額に手をやり、目を閉じて、何かを思い出そうとしているかのような動作をする。
「そう。どうしてそうなっているのかはわからない。でも、今この子の中にはルー・ディナの力が宿っている」
「ルー・ディナの力?」
目を見開いて問い返したシリスに、ナイーシャはうながす。
「気を感じるのは、あなたの方が得意なはずよ。この子の内を、よく見てごらんなさい」

シリスはゆっくりと意識を集中させる。
らしくもなくスーリャの熱にかなり動転していたのだろう。普段ならこれほどの変異に気づかないはずはないというのに。
ナイーシャの言うように、スーリャの内に今までなかったものが存在していた。
その感じは、スーリャに初めて会った時に彼から感じた異質感に、非常によく似ている。
「これがルー・ディナの力……」
力の強さに愕然と呟く。
「たぶんこの力が原因で熱が出たのね。人が持つには過ぎた力。受け入れる衝撃か何かで、身体の方に反動が返ってきた、と。そういうことだと思うわ」
「スーリャはルー・ディナの愛し子だろ。なんでこんな――」

「だからでしょ。空の祝福を受けし、地上に降りた月の女神の愛し子。この子が今、こうしていることには何か理由があるはずよ。でも、それは今の私達ではわからない」
シリスは沈黙した。
「ルー・ディナが愛し子であるスーリャを傷つけるとは思えない。だから、大丈夫よ。シリス、もう遅いわ。今日は帰りなさい」
ナイーシャの有無を言わさぬ口調と表情に、それでもシリスは不満そうな顔をして口を開きかけ、
「ここはいちおう男子禁制の宮。いくら陛下でも、ここの主である私の言葉には従ってもらいます」
言葉まで改めて奥宮の主然として言われてしまえば、その内容が正当であるだけに逆らいようもない。
「ラシャと私でしっかり見ているし大丈夫よ。何か異変があったら知らせるわ」
シリスは頷き、静かに出て行った。
それを見送ってからスーリャの方を見て、ナイーシャは沈鬱な表情をした。



この騒ぎが後々とんでもない波紋を呼ぶことになる。
けれど、それを予想しえた人間は、誰一人いなかった。





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2006/07/16
修正 2012/02/01



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