天の審判者 <18>



スーリャは与えられた部屋で長椅子に座って、窓越しに空を見上げていた。
連日のごとく姿を現していたシリスが、今日は来なかった。今まで王とはそんなに暇なのかと呆れていたが、いざ姿を見ないとなるとなんとなく落ち着かない。
たった一日会っていないだけなのに……。
スーリャは自分の心を持て余していた。

シリスと過ごす時間は、いつもそんなに長くない。話していることも、スーリャの勉強の成果や他愛も無い話で、重要でもなんでもない話ばかりだ。
それが一日欠けたからといって、どうしたというのだろう。
シリスは王さまだ。居候で勉強中で、何もできない自分とは違う。
今まで日参していたことの方がおかしかったのだ。
きっと今日は忙しかったに違いない。
そう自分に言い聞かせるけれど、心がモヤモヤする。
そもそも、なぜそんなことを自分に言い聞かせているのだろう。

スーリャはため息をついた。
こんな風に空を見上げるのは、この世界に来て初めての夜以来だ。
あの時は真夜中で、白っぽい月が中天にかかっていた。
今は空が闇色に染まって少し経った時刻。まだまだ夜は始まったばかりだ。
月の無い夜空は、どことなく薄ら寒い。

あの時知らなかったことを、今のスーリャは知っている。
どうして自分はここに来てしまったのか。
理由はわからなくても、この世界に自分を導いただろう存在があることを知っている。

今は出ていない。

「ルー・ディナ」
月の、女神。

スーリャは身体から力が抜けていくのを感じた。
突然、睡魔に襲われたかのように、意識が混濁していく。
長椅子に横たわるように、彼は眠りについたのだった。



気がつくと、スーリャは白っぽい空間にいた。
わけがわからず、辺りをキョロキョロと見回す。けれど、何もない。
そこはどこまでも白っぽい空間でできていた。
確か夜空を見上げていた。なのになぜ?
急に眠くなって……気づいたらここにいた。

「君がやっと僕を呼んだからだよ」

誰もいないと思っていたのに、そうではなかったらしい。
声のした方を振り向けば、幾重にも敷かれた柔らかそうな素材の敷物の上で、大きなクッションを背にゆったりと座る青年が、カップ片手に微笑んでいた。

何から驚けばいいのか、少し困る。
もの凄く不自然なこの状況はいったい何?
というか、この人誰?
非常にあやしい人な気がする……。

「ひどいなぁ〜。やっと呼んでくれたと思ったら、不審人物扱いだなんて。とりあえずこっちにおいで。何か飲みたい物はある? なんでも出してあげるよ」
コイコイと手招きする青年に警戒しながら、どうしようかスーリャが迷っていると、
「僕が君に悪さするように見える? そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
アハハと笑うその姿は、その言葉通り無害に見えた。スーリャはゆっくりと近づき、青年から少し離れた所に座る。
その様子に青年は苦笑する。
「リクエストは無いようだから、僕のお手製をご馳走するよ」

スーリャの前に何の前触れもなく、液体の入ったカップが現れた。
ギョッと驚くスーリャに、
「ここは君にとって夢みたいなものだからね。なんでもありだと思っておいていいよ。それより僕のお手製レモンティー。飲んでみて」
にこやかに言い、感想を待っているのか、青年はじっとスーリャを見つめる。その視線に気圧されるように、仕方なくカップを持ち上げて一口含む。
ゆっくりと飲み下して、スーリャはほっと息を吐き出した。

「おいしい」
変な味はまったくせず、普通にレモンティーだったことに安心する。しかも、甘さは控えめで自分好みの味。
スーリャの素直な感想に、青年が満面の笑みを浮かべた。
「よかった。他人に入れたのはかなり久しぶりだったから、心配だったんだ。その味になるまでは、なかなか苦労したんだよ。茶葉が――」
とつとつと語りだしていつまでも続きそうなレモンティー講義に、
「とりあえず、あんた誰?」
スーリャは強引に割って入り、問い掛けた。

青年の言葉がピタリと止まる。そして、スーリャの顔を探るように見る。
「冗談じゃなく、僕が誰かわからない?」
笑みを消して真剣な表情で訊いてきた青年に、スーリャはコクリと頷いた。
「本当に? 忘れちゃったの?」
縋りつくような哀願にも似た表情をされて、スーリャはうっと詰まった。
けれど、知らないものは知らない。
もう一度頷けば、青年はこの世の終わりのような表情になって天を仰いだ。
その手にあったカップはいつの間にか消えている。

「あぁ、なんてことだ。愛し子に忘れられるなんて、僕の人生って――」
青年はわけのわからないことを呟き、がっくりと肩を落として項垂れた。
けれど、次の瞬間には立ち直ったらしく、スーリャをまっすぐに見つめて。
「でも、君は僕を呼んだよね?」
青年の問いに、スーリャは首を傾げた。
「俺があんたを呼んだ? 何かの間違いじゃないか。そもそもあんたは誰?」

「僕は、ルー・ディナだよ」

……………。

「……月の、女神?」

かなりの間を空けて、スーリャは愕然と呟いた。
考えに考えて、同じ名前の人物はいないか探した。
どう見ても目の前にいる人物は青年だ。いくらきれいな顔をしていようとも、それ以外の何者にも見えない。女神なんて言われていれば、普通は女の人だ。
そんな、まさかといった思いの詰め込まれた呟きを受けて、青年、ルー・ディナが首を傾げる。

「そうだね。そんな風にも呼ばれているかな。なんでだろうね」
不思議そうに言われても、そんなことは知らない。というか、スーリャの方がその理由を聞きたかった。
「まあ元々僕の場合、性別なんて合って無いようなものだから、それでも良いんだけど。どっちにもなれるし」
それなら女神らしい女の姿をしていろ。
スーリャの心の声が聞こえたのか。ルー・ディナは少し淋しそうに笑った。
「僕はもうこの姿以外、取る気はないんだ。紛らわしいことして、ごめんね」
今にも消えてしまいそうな儚い様子に、スーリャは首を振ることしかできなかった。

「僕を呼ぶまでだいぶ間があったけど、何か問題でもあったのかな?」
気を取り直すように、ルー・ディナが訊いた。
「俺は前にあんたと会ったことがある?」
事情がよくわからず、スーリャが訝しげな顔をする。
「そのことも忘れてしまったの?」
困惑した表情のルー・ディナとスーリャは、互いの顔を見つめる。
「俺はあの世界に行く前の自分のことを覚えてない」
「ああ。それは僕の仕業だよ」
あっさりと答えるルー・ディナに、スーリャが目を見張る。
「なんで?」
瞬時に切り返せば、
「君の希望だったから」
これまたあっさりとした答えが返ってきた。

「僕もそんなことを言う子は初めてだったから驚いたよ。僕の頼みを聞いてもらう代わりの条件だって言うし、そんな難しいことでもなかったから実行しちゃったけど。もしかしてまずかった?」
本当に自分がそんなことを言い出したのだとしたら、いったい何を考えていたんだろう。
気分的に頭が痛くなり、スーリャは米神を揉み解した。
「でも君の希望通りにその期限は僕の頼み事が完了するまでだから、心配しなくても大丈夫だよ。元の世界にも帰してあげられる。もしかしてそれも覚えてない?」
スーリャは無言で頷いた。

その様子にルー・ディナは少しだけ眉間に皺を寄せる。
「変だなぁ〜。あそこに送る前に僕に会ったことも、そこで話した内容も覚えてないなんて。もしかして加減を間違えて、余分に記憶を消しちゃったとか……まさかね」
カリカリと頭をかき、
「僕の頼み事、覚えてる?」
神だといわれているのに、威厳を微塵も感じさせない、どちらかといえば情けない表情をして、ルー・ディナはスーリャに訊いた。
スーリャは遠慮なく思い切り首を左右に振る。それを見て、ルー・ディナは両手を敷物の上に置き、大袈裟な仕草で嘆いた。

「ごめんねごめんねごめんね。僕のお馬鹿な手違いで余分な不安を与えちゃったみたいで。今日ここに来てくれて、僕を呼んでくれて本当によかった。どんな偶然か知らないけど、そんな幸運を引き寄せてくれた神さまに感謝してもしきれないよ」
ルー・ディナはスーリャの方にズズイと近づいたかと思えば、その頭を子供にするようにやさしく撫でた。
彼の予想できない行動と言動に、スーリャは困惑する。
「……あんた、いちおう月の女神って言われてるんだろ。それなのに神さまに感謝するのか」
言うことはそれだけかと自分でも思ったが、なんとも調子の狂うルー・ディナの態度に、スーリャはそれを指摘せずにはいられなかった。
「神さまも色々いるからさ。でも、幸運関係の神さまって誰だったかな」
どこまでも神らしくないルー・ディナに、スーリャは脱力したのだった。

相手にすると疲れる。
スーリャが短時間で出した結論はそれだった。
ふと、ここにいないシリスの顔が思い浮かぶ。
ルー・ディナとは別の意味で、精神的疲労を及ぼす存在。
シリスの場合、意図的にやっていることが多い。それに慣れればそこそこ対処もできるし、あれは一種のコミュニケーションだと今では考えていた。
それにシリスと話をするのは嫌ではなかった。彼と話をする短い時間は、スーリャにとって楽しい時間だった。

けれど、ルー・ディナの場合。
これは確実に天然だ。
スーリャには計り知ることとのできない頭の構造をしているに違いない。
せっかくだが必要なことだけ聞いて、さっさと戻れるなら戻った方が精神衛生上、ぜったい良いに決まっている。
これはルー・ディナ曰く、夢みたいなものだから、覚めるといった方が正しいのかもしれないが。
さりげなくスーリャはルー・ディナとの距離を少しだけ取り直した。

今までのルー・ディナの言葉からを、必要だろう物事を整理する。
自分はこの世界、カイナに来る前にルー・ディナに会い、何かを頼まれた。
その時、それを引き受ける条件として、なぜか元の世界の自分に関する記憶を一時的に忘れるように頼んだ。
ルー・ディナはそれを快く引き受けて、うっかり余分に消したことに気づかないまま、自分をカイナに落とした、と。
自分の記憶に関する理由は、とりあえず今は関係ない。
今、聞く必要があるものは――。

「あんたは俺に何を頼んだんだ? 俺はそのためにカイナに、ジーン王国に行ったんだろ?」





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ルー・ディナの登場。かなり重要な位置にいるはずのお方です。
なにせスーリャを異世界に連れ去った張本人ですから。
2006/07/15
修正 2012/02/01



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