天の審判者 <16>



こうしてスーリャが勉強に励んでいる間、シリスは何をやっていたかといえば、いつも通り執務に追われていた。 いつもと違うのは、仕事の合間や終わってからこっそり隠れてスーリャに会いに行くことだ。
とはいっても、シリスがいつも通りだから宮廷内もいつも通りかというと違う。
およそ一月前ぐらいから出始めたある噂でざわめいて、どことなく落ち着きに欠けていた。

ある噂。
それは『天の審判者』がついにこの国にも現れた、といった内容だった。
空から人が降ってくるという派手な登場の仕方をしたのだから、シリス以外の目撃者がいてもおかしくない。
噂話は宮廷内に止まらずに、街の方まで広がっていた。
国中に広がるのも時間の問題だろう。
噂話の広まり具合は確認しつつも、それをそのまま放置する。

こうしてある意味シリスの思惑通りに噂話は国中に浸透していた。
けれど、所詮は噂話。国民の多くは半信半疑だった。
というか、まさかっといった感じで信じていなかった。
それもそのはずで。多くの国民はまだ、じわりじわりと蝕まれ始めていた国の異変と置かれた立場に気づいてはいなかったのだ。

何百年も続いているジーン王国は、代々平和主義を貫き、先の戦からも百数十年は経った平和な国だった。その間、目立った災害に襲われた記録もない。
資源は豊富で、街道も整備されている。そして、他国との交易も盛んだった。

そんな風に表面的には平和なジーン王国だが、その裏では様々な問題も起きていた。ただ、それらは一般市民にまで伝わらなかっただけで……。
今、それが表面に出てこようとしている。
近隣諸国の一つ、最近新しく建国されたヴィア帝国との関係があまりよろしくない。下手をすれば戦になる。
あちらはそれを望んでいる節がある。
そうまでして手に入れたい魅力的な国だと思われているならば、嘆いていいのか喜んでいいのか。

まだ大丈夫だろうが、いずれ―― と考えていたのだが、今、国中に出回っている審判者の噂話はヴィア帝国にも届くはずだ。
審判者は有名だ。絶対に何かしらの反応が返ってくる。
向こうから仕掛けてくるその時こそ、釘を刺すのにちょうど良かった。
こちらから仕掛けるのでは、今後の他国との関係を考えれば都合が悪いのだ。
なにせジーン王国は平和主義を貫き、それを元に近隣諸国と関係を結んできた国なのだから。
これはこれでシリスにとって頭の痛い問題ではあったが、問題は他にもあった。

国民が審判者の存在をどうとらえるか。どの程度の人間がスーリャに害意を持つか。誰が王である自分に反逆の意思を持っているか。
それらを詳しく知る必要があった。
そのためにちょうどよく出てきた噂話を利用しようと考えた。外部の敵よりも、内部の敵の方が何倍も恐ろしい。
せっかく築き上げてきたものを、いざという時に内側から崩されてたまらない。
どうしても外よりも内の方が脆い。
だからこそ、今の内に燻り出して始末できるならさっさと始末し、無理なら対策を練る必要があった。

あと一つの問題。
こちらは完全にお手上げ状態だった。
じわりじわりと国土を蝕み始めている原因はソレだとシリスは考えている。けれど、ほとんどの人間には見えない。
今の所、人間に害は無さそうだが、いつそうなるかわからない。それに間接的な被害は少しづつ表れ始めている。
気をつけるにこしたことはないけれど、見えない人間がほとんどなだけに注意の呼びかけようもない。発生原因はわからないし、始末の仕方もわからない。
それに関しては、わからないづくしだった。
唯一わかっているのは、姿が蝶に似ているということだけ。
紅黒い色をしたその存在は、ひどく禍々しい雰囲気を湛えている。同じくそれを見て、感じることのできるナイーシャもシリスと同意見だった。

あれは良くないもの。
あれこそ、禍を呼ぶものかもしれない。

スーリャが来て数日後に、ナイーシャが蝶に対して言った台詞だ。それを頭の中で反芻して、シリスも思う。
スーリャに対しては、そんな感じはまったく受けなかった。
国を滅ぼすとも言われる存在だというのに、奇妙な異質感はあったとしてもその印象とは結びつかない。
それに対して、あの蝶は禍を呼ぶと言われると妙にしっくりくる。その通りだと頷きたくなる印象があった。

シリスが蝶の存在と特性を知ったのは、スーリャが現れる約三月前のことだ。
それ以前から存在していたのかもしれないが、シリスは今まで一度も見たことがなかった。
そして、日を追うごとに少しづつ増えている気がしてならない。
このまま増殖すれば、いずれ国は蝶に喰い尽くされてしまいそうで――。
そんな考えを打ち消すように、シリスは頭を左右に振った。

審判者であるスーリャと禍々しい雰囲気の蝶。

一見何の関わりもないように思えるが、二つの特異な存在はそこそこ近い時期に現れている。
何か関係でもあるのかもしれない。

結局、先日出した結論にたどり着き、シリスは物思いにふけることを止めた。
目の前の執務机の上には、未処理の書類がまだ溜まっている。これを今日中に消費するためには、まだまだ時間が掛かる。
ウンザリした気分で、それでも仕方なくシリスは真面目に仕事に取り組み始めたのだった。



そうしてどのくらいの時間が経過したか。
バタバタと騒がしく廊下を走る音が、シリスの執務室へと向かってきていた。

「陛下! 今度はいったい何を企んでおいでですか!」

礼儀も何もなく執務室の扉をバーンと音を立てる勢いで入ってきた老人に、シリスは苦笑する。
「ひさしぶりだな、ザクト。元気そうじゃないか。隠居生活を満喫中のおまえが、そんなに慌ててどうした?」
相手を咎めもせず、からかいを含んだ声でシリスが問えば、その声で冷静さを取り戻した老人、ザクトが深々とため息をついた。
ヨロヨロと来た時の勢いはどうしたと言わんばかりの力無い動作で、執務室に設置された簡易な休憩所の長椅子に腰を下ろす。

「わたしもそのつもりでございました。それを毎回毎回潰すのはどこのどなたの仕業でございましょう」
ザクトが恨みがましくシリスを見れば、
「さあな。まったく暇な奴らが多い。俺の仕事をわけてやりたいぐらいだ」
シリスは他人事のようにそう言って肩を竦め、女官を呼び出すための呼び鈴を鳴らした。
隣室に控えていた女官はすぐに現れ、彼女に二人分のお茶と茶菓子を頼む。
「話があって来たんだろ。俺もおまえに話がある。ちょっと待っててくれ。この書類だけ先に片付ける」
「わたしのことならお気になさらずに。先触れもなく、突然訪れたわたしが悪いのですから、陛下のお時間が空くまで待たせていただきますよ」



それからシリスの手が空いたのは、ザクトがお茶を一杯飲み終わり、ポットから新たに注ぎ入れた後だった。
「それで。あいつらはおまえになんと言って泣きついたんだ?」
ザクトに向き合うように座り、シリスはゆったりと腕を組んだ。
この部屋は重要な案件を常に扱う王の執務室だけあって、盗み聞き対策などは初めから万全に整えられている。
外部にもれる心配がないから、遠慮なく聞かれたくない話もできた。

ザクトは空のカップにお茶を注ぎ、シリスの前に差し出し、吐息をもらす。
「楽しんでないで、もう少し臣を思いやった態度を示してはいかがですか。今回はリマ殿下もグルだと聞きました。まったくあの方が止めなくて、誰にあなたが止められるというのか」
「愚痴を聞かせに来たわけでもないだろ。あいつらがおまえに泣きつくのは予想済みだ。おまえを直接、俺が呼び出すと大袈裟になるからな。たまにはあいつらでも役に立つと言いたい所だが……。率直なおまえの意見を聞きたい。あの噂をどう思う?」





*************************************************************
シリスとジーン王国を取り巻く、事情を少しだけ。
2006/07/11
修正 2012/02/01



back / novel / next


Copyright (C) 2006-2012 SAKAKI All Rights Reserved.