求婚 <4>



仕事は定時で終わり、聖はどこにも寄らず一路家路についた。
アパートの玄関扉に触れても、朝、張っておいた結界の感触は無い。それは、烙がここに居るということを示していた。
鍵を開けて、彼が居るだろう部屋までズンズンと足早に進む。そして、自分の家のようにソファでくつろぐ不法侵入者を見つけて、思わず口から零れそうになったため息をのみ込んだ。
変わりないその光景に、色々な意味でどっと疲れた気がする。
脱力しそうになる気力を止めて烙の側まで詰め寄り、聖は仁王立ちになった。

「あんたに訊きたいことがある」

いつもとは違う、葡萄色の液体が満たされたグラスをユラユラとさせ、烙はおかしそうに聖を見上げる。
グラスから仄かに甘い香りが漂い、聖の気勢が一瞬、削がれた。

「遅かったな。おまえのことだから、すぐに帰ってくると思っていたが――」
予想が外れた。

烙がクツクツと喉の奥で笑う。
聖はその姿を睨みつけながら、内心、焦っていた。
あの時の予感は正しかったと心底思う。だが、烙のこの反応も面白くない。
聖の機嫌を表すように、その眉間には皺が寄って唇が小さく尖る。

「昼間のこと、だろう? まあ、まずは座れ」
ポンポンと自分の隣を示すようにソファを叩いた烙に、聖は彼の要望とは違い、向かい側のソファに腰掛ける。
烙はその様をおかしそうに眺めているだけで、何も言わない。
「昼間のアレはあんたの仕業なのか ? 」
知っているということは十中八九、彼の仕業なのだろう。
聖の言葉は問い、というより確認に近かった。
「ちょっとした仕掛けを施しておいただけだ」
グラスの中身を煽り、烙の唇が弧を描き、凄絶な笑みを浮かべる。酒の色のせいかその唇は赤く、血が滴っているように見えた。

「……仕掛けって、俺に何やったんだよ」

烙のまとう雰囲気に気圧され、聖の問う声が一拍、不自然に間を空けた。だが、気づいているだろうに烙はそのことを指摘しない。彼が口にしたのは、問われた答えのみだ。

「おまえ、と言うよりおまえを害する存在に対して、だな。害意に反応して、その存在を無の空間に吸い込むよう設定しておいた」

さらりと告げられた言葉を聖が理解するまで、一拍、二拍、三拍。
瞬きを繰り返していた瞼を極限まで見開き、彼は目の前のテーブルをバンと叩く。

「なんつー物騒なモンを仕掛けるんだよ !? 一歩間違えば、俺が死ぬわ ! 不本意だけど、どう逆立ちしたって俺はあんたほど力が無いんだ。二度とそんなモン、仕掛けるな ! 絶対だからな !! そもそもそんな非常識がまかり通るのはあんただけだ。それを理解しろよ。常識から学び直せ」

聖は早口に文句をまくし立てた後、強張っていた全身から力を抜き、ぐったりとソファの背に身を預けた。
よくぞ生きていた、自分。
今更だけれど非常にまずい状況だったことを知り、聖は身震いする。
あの時、何も感じずに拳を突き出していれば黒い渦に触れていた。もしアレに触れていたなら聖は今、ここに居なかったかもしれない。
想像するだけでも恐ろしい。

無の空間に吸い込まれれば、そのモノは消滅する。

ウイの一族がいくら頑丈だろうと、そんな空間に入って無事でいられる可能性は低い。けれど、目の前のこの男なら、そこでも平然と無傷で生きていそうだ。
殺しても、死にそうにないもんな……。
現実逃避の如くふと浮かんだ考えに、聖は視線をさまよわせて微妙な顔をする。

「俺がそんなへまをすると思うか ? 」

さも心外だと言いたげな烙の台詞と表情に聖は現実に立ち戻り、テーブルをバシバシと叩く。
烙が彼の言動を面白そうに見ていたが、そんなもの今は無視だ。
いちいち突っ掛かっても、反対に烙を楽しませるだけ。そんな不毛で不愉快なことをするよりも、己の主張を通す方が重要だった。

「そういう問題じゃない。お、れ、が、い、や、な、の ! 」

烙の言い分から推察するに、彼の仕掛けが聖を害することはないのだろう。
この男が完全に狂っていたとしても、こういう方法で自分の命を奪うことはないだろうという気もしている。とても嫌な予測であるが、血も肉もひと欠片も残さず食われそうな――。
けれど、もしもということもある。
それにどのような理由だろうと、まだ死ぬ気は微塵もない。

聖の断固拒否な姿勢に、烙が肩を竦める。
「仕方ない。次は別のモノを仕掛けるか」
聖が本気で拒絶していることは、烙にもわかった。彼が本気で嫌がることをするのは、烙にとしてもあまり望む所ではない。
聖に害為す者への報復方法など、他にもあるのだから我を張る必要も無い。
今回の仕掛けについては止めることを承諾した烙に、聖が力無く項垂れる。
己の言い分が通じたようで、通じていない。

「そうじゃない。仕掛けが必要無いんだよ」
「それは駄目だ」

その瞬間、室内の体感温度がいっきに下がった気がした。
冷やかな拒絶の声。すべてが凍りつくような冷たさをそこに感じて、聖はゆっくりと顔を上げ、烙を見た。
その身にまとう冷たい空気とは裏腹な、触れれば焼け焦げそうなぎらつく瞳で、彼は聖を射抜くように見つめていた。

恋に狂った男の瞳。
一族の業を孕む、琥珀色の瞳。

ゾクリと背筋を何かが駆け抜け、聖の心臓が不自然に波打つ。
そこに介在するのは、どのような感情によるものか。
恐怖か、それとも別の感情か。

コトリと音がした。
視線を音のした場所に向ければ、テーブルの上に置かれた空のグラスから烙の手が離れる所だった。
追う視線の先で、彼の両手が膝の上でゆったりと組まれる。

「おまえが誰かの手によって傷つくことは、俺が許さない」

肌に突き刺さる視線が痛いほどで、烙がまっすぐに聖を見ていることを伝える。
この男は今、どんな顔をしているのだろう。
見たいけど、見たくない。
ふとそんな思いがわき上がり、向けられた視線の強さと好奇心に負けた聖が顔を上げる。
おまえは俺のモノだ。
感情を消し去った顔の中で唯一、感情を露わにした琥珀色の瞳がそう告げていた。剥き出しの激情に、聖の肩がビクリと震える。

「……一番危ないのは、あんた自身だと思うけど」

この男の感情にのまれるわけにはいかない。
聖は誰のモノでもない。
縮こまりそうになる心を奮い立たせ、彼は烙を睨みつける。
他のどんな存在よりも一番厄介で危険なのは、目の前にいる男だ。
減らず口を叩く聖に、烙はふっと笑った。

「確かに、おまえにとっては俺が一番危険だな」

クツクツとおかしそうに笑う男は酒瓶を手に取り、空のグラスに葡萄色の液体を注ぐ。緩んだ空気に、聖は自然と力が入っていた肩の力を抜いた。
何が気にいったのか。
機嫌良さげに烙はグラスを口に運び、中の液体を飲んでいる。
先程の殺気にも似た気配は完全に鳴りを潜めていた。ただ、あれもこの男のひとつの姿なのだということを、忘れるべきではないだろう。

聖はフウと息を吐き出す。
「ま、それでも今日は助かった。ありがとう」
どんな理由だろうと、烙の仕掛けで自分は何もやらずに済んだ。その礼は言うべきだろうと思ったのだ。
立ち上がり、夕飯を作るためキッチンに向かう途中で、聖は振り返る。

「俺の呼び名、聖って言うの。呼びたいなら、勝手に呼べば」

今更だが、呼び名くらいなら教えてもいいかと思ったのだ。
烙の名は訊いたが、いまだ聖は自分の呼び名すら彼に告げていなかった。烙も訊かなかったものだから、自ら告げてやる必要も無いかと言わなかったのだ。
別に信用したわけじゃないからな。
心の中で、聖は小さく言い訳する。

そそくさとキッチンに消える後ろ姿を、烙は目で追った。その口元は機嫌良さげに弧を描き、グラスの中の液体がゆらゆらと揺れる。
「聖」
相手には聞こえないほど小さな声で、告げられた名前をそっと口の中で転がす。甘露のような甘さを感じて、烙の笑みが深くなった。
「少しは警戒が解けたか」
その呟きには喜びとおかしみが含まれていた。

素直じゃないな。

先程の聖の言動を思い出して、烙は喉の奥で笑うのだった。





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2012/03/01
修正 2013/12/29



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