求婚 <20> |
「あぁー。どうすっかな、この状況」 顔を引きつらせてぼやく聖の背中を、嫌な汗が伝っていく。 目の前には怒り狂った烙。 はっきり言って、かなり怖い。というか、即行で逃げ出したい。 こんな奴を相手に戦っても、絶対に負けるのは自分だとわかっているのだから。 初めから勝算の無い勝負などやりたくない。 けれど、ここで聖が引けば、せっかく逃がした命をこの男が摘み取ってしまう。 不注意だったのも、油断していたのも自分だ。 誰も悪くないというのに、どうしてこうなってしまったのだろうと、現実逃避の如く聖は過去を振り返るのだった。 事の起こりは、数時間前までさかのぼる。 聖の職場になぜか、楓がひとりで訪ねてきたのだ。 そこは協会とも縁が深く、その辺の融通がきく。よって、彼は強制的に仕事を切り上げるはめになった。 近くにある唯一の喫茶店に二人は移動し、向かい合わせに座る。 今日の楓は人の姿に擬態し、スカートにブラウス、カーディガンを羽織るというシンプルな洋装で、外向き仕様の姿をしていた。 聖は不機嫌そうに、彼女を見る。 「それで ? 今日はなんの用だよ」 彼の声にもあからさまに険が宿っている。 「そもそも、ひとりでこんな場所までフラフラ来ても良いのか ? 」 協会は巨大な組織だ。だが、その成り立ちや業務運営上、必ずしも万人に受け入れられているわけではない。そこここに敵が存在する。その中には実力行使に出る過激な奴らもいるのだ。 けして大々的に知れ渡っているわけではないが、楓が協会の長だと、その顔を見知っている者もいる。だからこそ彼女は命を狙われることが間々あった。 いくら楓が攻撃にたけた術の遣い手だろうと、ド田舎とはいえ、ひとりでこんな場所をうろついて良いわけがない。 「良くはない。ないが、少し待て。妾はこの本日のお薦めケーキセットを注文する。そなたはどうする ? 」 そんな周囲の心配も、甘い物の前では後回しにされる事柄らしい。 聖の不機嫌などそっちのけでメニューを真剣に吟味していた楓が、彼にメニュー表を提示する。その様子に彼は深々と諦めたようにため息をついた。 「俺はチーズケーキと紅茶」 すぐに給仕を呼んだ楓は手早く二人分の注文を済ませ、少々疲れたように息を吐き出し、パタリとメニューを閉じて所定の位置に置く。 「それで ? 」 去った給仕の後ろ姿を確認して、聖が再度問う。 「少し困ったことになった」 「……厄介事か ? 」 嫌そうに顔をしかめた聖をちらりと見て、楓が気まずそうに自分の髪に手をやった。 「前回のような依頼ではない。ただ――」 この期に及んで言い淀んだ楓に、聖が視線で先をうながす。 「そなたの所に、もしかしたら森が現れるかもしれん。見つけたら保護して、協会本部まで送り返してくれぬか ? 」 「……は ? 」 予想外の台詞に、聖が瞬きを繰り返す。 森といえば、まだ協会でバイトをしていた時期に人手不足で駆り出された、協会職員や事情があって連れてこられたり預けられたりした子供の預かり所で、なぜかものすごく懐かれた子供の呼び名だ。 先祖返りで人外の血が色濃く出てしまった森は、普通の人間である両親には手に余り、紆余曲折の後に結局、協会に引き取られ育てられていた。 成長速度も人間とは違い、森はゆっくりとした速度で育つ種族だったらしく、あれから二十年余り。記憶が正しければ、順調に育っていたとしても人間年齢に換算すると七、八歳前後でしかないだろう。 まだ己の力の制御すら、ままならぬ歳のはずだ。そんな子供をなんの段取りもなく人間の生活圏で、ひとり外出させるなど不味い以外の何物でもない。 「まさかひとりでいなくなるなど、思ってもいなかったのだ。ここ最近はずいぶんと大人しかったので油断しておった」 困ったように頬杖をついてため息をつく楓を、聖はじと目で見る。そして、口を開きかけた所で止めた。 給仕が二人の前に注文品を置いて去るのを待ってから、もう一度口を開く。 「なんで今更、俺の所に来ると思うんだよ」 フォークでチーズケーキを切り、その欠片を口に放り込んで咀嚼する。芳醇なチーズの風味とふんわりとした触感が口の中で溶けていく感覚に、聖は無意識に笑みを浮かべた。 「フジが少々、余計なことを言ってしまってのぉ」 小さく切り分けたムースケーキにフォークを刺して口に放り込んだ楓が、その味に満足そうな笑みを浮かべる。 「……余計なこと ? 」 嫌な予感しかしなくて聖はフォークを置き、紅茶の入ったカップに手を伸ばす。 「昔、森がそなたに言ったことを覚えておるか ? 」 一口だけ飲み、カップを置いた彼は心当たりが無くて首を傾げた。 「俺に言ったことって…… ? 」 「『いつかオレのお嫁さんになって』と言われていただろうが」 行儀悪く聖にフォークの先を向け、半眼で楓は口真似をした。 「あ〜、あぁ。言われた、かも ? でも、あれって小さな子が親とか保母さん保父さんに言うような、大きくなれば忘れる台詞だろ ? 俺、それに了承してないし。そもそも性別、男だし。色々間違ってると思うけど」 「言葉は色々間違っておるだろうが……森は本気のようだったぞ、いまだに」 聖は固まったまま、ウロウロと視線を彷徨わせる。 「……マジで ? 」 「マジじゃ」 頷く楓に、困惑の表情を浮かべる聖。 「そもそも森は女子だぞ」 「…………マジ ? 」 目を見開き、楓の顔を凝視する聖の顔には、信じられないとわかりやすく書いてあった。否定してくれ、とも書かれてあった。 だが、ここでその事実を否定しても意味がない。 楓が告げられる答えは、一つしかなかった。 「マジ」 呆れたような視線を見つめ返してはいても、聖は彼女の言葉を素直に受け止められずにいた。 記憶にある森の姿は、男の子にしか見えない。 一人称はオレだったし、髪は短髪で、服装も男物を着ていたはずだ。幼いながらも他を思いやる心持ちはあったが、基本的に活発で暴れん坊だった。 「やはり気づいておらなんだか」 返す言葉もない聖が視線をそらし、気まずさを誤魔化すように、大きく切ったチーズケーキを口に放り込む。 当時、薄々彼の勘違いに気づきながらも指摘しなかった楓は、そのことをこれ以上この場で言及するつもりもない。今は過去のことよりも、この後のことだった。 「それでの。森がどこからかそなたがまた、協会に出入りしていたという話を聞きつけてきたのだ。それでフジが――」 そこまで告げ、フラフラと視線を彷徨わせ言葉を探していた楓だったが、良い言葉は見つからず、息をひとつ吐き出して聖に視線を戻すと続きを口にした。 「そなたに会いにいくと癇癪を起こす森に、言ってしまったのだ」 「何を ? 」 あまり口にしたくなさそうな楓に、続きを要求すれば。 「そなたにはラブラブな同棲相手がいるから邪魔はするな、みたいなことを」 伴侶がうっかり口を滑らして、子供相手にとんでもない台詞を吐いてしまったことに、楓は誤魔化し笑いを浮かべて聖の様子を窺う。意外に常識を弁えている彼の性格を考えると、小言の一つ二つは覚悟しなくてはならないかと思ったのだが―― 聖は顔を赤くさせたまま絶句し、固まっていた。 ヒラヒラと眼前で手を振ってみたが、反応なし。 まあいいかと開き直った楓は、彼が元に戻るまで存分にケーキセットを楽しむことにした。そして、しばらくした後、ようやっと正気を取り戻した聖は――。 「どこの誰が、ラブラブで、同棲してるんだよ !? 」 思わず叫んでしまってから、ここが喫茶店内で、他人の目もあることに気づく。 キョロキョロと辺りを見回せば、半端な時間だったこともあってそれほど店内に人は居らず、他人の視線を浴びるようなことにはなっていなかった。そのことにほっと息を吐き出す。 「その様子だと、うまくいっているようだの」 うふふと含み笑いをする楓を、聖が睨みつける。 「そなた、やっと己の気持ちを認めたであろう ? 」 堪えた様子もなく笑い続ける楓に、聖はため息をつく。からかいのネタを提供してしまったことに気づいても、すべては後の祭だ。 「まあそなたを弄るのはまたの機会にして、続きを話そうか。そのような訳で森が勝手にそなたに会いに協会を脱走してしまったのじゃ。そなたに会えばあの子の気も済むかとも思ったのだがの。……妾はあの男が怖い」 誰のことを示しているのか分からず、聖が首を傾げる。 「そなたの同棲相手じゃ」 その言葉に自然と彼の眉間には皺が寄ったが、誰のことを示したかは理解できた。ただ、彼女の懸念は納得できない。 「あいつにちょっかい出すなら別として、いるだけなら大丈夫だろ ? 」 どれほどやんちゃに育っていようとも、生存本能はあるはずだ。さすがにそんな命知らずな行動をするとは思えなかった。 だが、楓は聖の楽観的な言葉にフルフルと首を横に振る。 先程の楽しそうな様相とは一変して、その顔からは血の気が失せている。彼女は本気で烙の存在を恐れていた。 それがわかって、更に聖の眉間に皺が寄る。 「幼いながらも、森はそなたに好意を持っておる。そんなあの子がそなたに近づくことをあの男が許すはずがない。見つかれば抹殺くらいしかねないと、妾は考えておるのだ」 まさか、そんな……。 すべては楓が考える、仮定の話でしかない。けれど―――。 「……ものすっごく嫌だけど、否定しきれない」 顔をしかめて項垂れた聖に、楓は同情的な瞳を向ける。 聖に執着する烙。 普段の彼は聖の行動を縛るようなことはしない。けれど、じわりじわりとすべてを絡め取るように、彼の存在は着実に聖の一部に成りつつある。 烙は聖に関することだけは、ひどく狭量だ。 それはもう、大人げないくらいに――。 その後も色々と話した後、迎えに来たフジとミサに楓を託し店内で別れた聖は、中途半端に余った時間を消費するために周辺をぶらつくことにした。 この時間に家へ帰るのは得策ではない。いつもと違う行動を取れば、その分、烙に何か感付かれる可能性がある。 現状、それはなるべく避けたい事柄だった。 楓の話では、森は聖の現状を正確には知らないはずだとのこと。ただ、どこからか正確な情報が漏れている可能性もあるので、絶対とは言えないという。 だから、楓も「もしかしたら」という前提で聖に保護を頼みに来たのだ。 もしも見つけたなら保護して、烙に見つかる前に協会に引き渡してくれ、と。 協会の方でも人員を割いているというから、さほど見つかるまで時間は掛からないだろう。今日、聖の前に現れるか、それとも会う前に他の職員に見つかって保護されるかはわからないが、とりあえずなるべく烙と遭遇しない状況を作っておく方が安全だった。 聖の外出先での行動を烙がどこまで把握しているか知らないが、それでも彼は何かない限りその行動を妨げるようなことはしないはずだ。 そうでなければ、今、こうして自由にいられるはずもない。 烙が何を考えているかなど、聖にはわからない。 ただ彼を信じるしかなかった。 そう思って、聖は苦笑する。 出会いは最悪。生きるか死ぬか。 逃れることのできない束縛を押し付ける存在だった。 そんな男を信じるようになるなんておかしな話だ、と思う。 烙は初めから聖を信じていたのだろうか ? 伴侶に告げる名は真名しかない、と彼はあの時言い放った。 真名は己の命と同等だ。告げれば、相手に生死すらも握られかねない。 そんな大事なモノを、出会ったばかりの聖にサラリと告げてしまえたくらい―― 信用されていたのだろうか。 互いのことなど、何も知らなかったのに ? 変な男だと思う。けれど、その変な男に絆され惚れてしまった。 烙の傍にいることが、彼に求められることが心地良いと。 そう思ってしまった聖の負けだ。 己の心を自覚し、烙とこのまま永の時間を生きていくのも悪くないと思った時から、聖は彼に真名を預けても良いと考えるようになった。 烙の真名を知っているのに、聖はまだ告げていない。 そして、烙も訊ねようとはしない。 対等な伴侶としての関係を望むなら、彼がそうしないのは当然だ。 これは強要するモノではなく、自ら明け渡すことに意味がある。だからこそ、聖は己の意思で告げなければならなかった。 それなのに口を開けばつい意地を張ってしまい、素直にどうしても言えない。 それについては自分だけが原因ではないはずだ。素直になろうと思う意思を挫く言動を取る、烙にだって問題がある。絶対に。 そんなことをつらつらと考えながら、聖は木立の中を歩いていた。今の季節は新緑で眩しいこの小道は、犬の散歩コースで歩く人間も多い。 そんな中、リードをつけないでトコトコと彼に近づいてくる子犬の姿があった。 飼い主がどこかにいるのか、それともどこかから逃げ出してきたのか。 聖の前で行儀よく御座りして尻尾をうれしそうに振る愛らしい姿に、彼は自然と微笑みを浮かべながら屈み込み、その頭を撫でようと手を伸ばす。 そして、触れた瞬間。 視界を白光が覆い、その姿はその場からかき消えた。 |
************************************************************* 2012/04/22
修正 2013/12/29 |