求婚 <13>



あの酔っ払い騒動の後。
彼ら二人の間で劇的に何か変わったかというと、そんなことはなかった。
聖は朝起きて仕事に行き、夕方に買い物などをして帰ってくる日々を送り、烙はそんな聖を待ち構えるように彼の部屋で酒を嗜み、時に本を読み、彼が作った夕飯を食べ、彼が就寝につくまでのほんの少しの時間を一緒に過ごす。

ただそれだけ。

烙から一定の距離を置く聖に、烙がその均衡を崩してまで近づくことはない。
それは今までと変わらない日々。

あんな熱烈な告白をしたことなど、まるで忘れたかのような烙の態度。
けれど、それがもたらすのは穏やかな日々。

確かに聖は、これ以上の変化を望んでいなかった。穏やかな日々が続けば良いと思っていた、はずだった。けれど、そんな日々が続く内に、鬱々とした何かが内に溜まっていく。
聖にはその原因が何か、よくわからなかった。考えても答えが出ないのだから、ついには考えることも止めた。
たとえそれが何の解決にもならないとしても――。
ただ、内に溜まり続ける何かが消化不良のように徐々に顔へも現れ、聖は知らず知らず不機嫌な顔で烙と過ごすようになっていた。

そんなある日の夜のこと。

夕飯の片付けなどの雑務を終えて風呂に入り、寝室へ引き上げようと居間を横切る途中で―― 聖はその場に立ち止った。
烙がソファで転寝している。
世にも珍しい光景に、聖の足は自然とソファに向かった。

烙が聖の生活空間に入り込んでからずいぶん経つけれど、彼が寝ている所を聖は一度も見たことがない。
聖は規則正しく毎日睡眠を取るので、時間がくれば寝室に行って眠りにつく。それは烙が居座る前からの習慣で、彼が現れてからもそれを変えるつもりはなく、そのまま今でも習慣となっている。
烙は聖が寝室に移動する時間になっても、大抵、酒を飲んでいる。主食は酒だと断言できそうなほど、彼は酒を好む。特にアルコール度数の高い物を。

とにかく、だ。
聖が起きる早朝には姿がなかったり、居たとしてもしっかりと起きていて眠そうにしていた所すら、彼は見たことがなかった。
それが今、自分の目の前で無防備に寝顔をさらしている。
気配を消して近づき、聖はゆっくりとソファの傍に膝をつき、近くで彼の顔を観察する。これだけ傍に居ても、烙は目を覚まさない。

そういえば、と聖は夕飯時の烙の様子を思い出す。
今夜の彼はどことなく気だるそうな雰囲気をかもし出していた。昼間に何をやっていたのか知らないが、もしかしなくとも疲れていたのだろう。
整った美貌はもともと他人を寄せ付け難い雰囲気で、琥珀色の瞳が閉じられている今、それがよりいっそう際立っている。

他人を拒絶する、冷淡な顔立ち。
精巧に作られたアンティークドールのようなその顔は、印象と同じく冷たいのか。

触れてみたい。

そんな衝動が、聖の心の内にわき上がる。
そっと、そっと。
烙に気づかれないように。起こさないように。
無防備にさらされている頬へと手を伸ばす。

触れたそこは……思ったよりも温かい。もっと冷たいと思っていただけに、拍子抜けした聖が詰めていた息を小さく吐き出す。
彼の手が触れた後も、烙は目を開けない。よほど深く眠っているのだろう。
緊張のためか、はたまた別の理由か。早鐘を打っている鼓動を聖は宥め、心の赴くままに手を動かして烙の髪に触れる。
少し固くてサラリとすり抜ける赤銅色の髪は、聖の猫っ毛な髪質とは感触がまったく違う。そのことに妙に感心して梳いていた彼は、ふと視線を感じて固まった。

カチコチと首を動かして烙の顔を見れば、しっかりと開かれた琥珀色の瞳とかち合う。今まで眠っていたはずなのに、彼の瞳には眠気の欠片も見当たらない。
瞬時に烙の髪から手を離した聖は、逃げるように彼から少し距離を取った。

「あんた、起きてたのかよ ! 」

叫び声を上げた聖は、無意識に烙に触れていた右手を左手で握り、胸元に抱える。烙は緩慢な動作で起き上がり、ゆっくりと瞬きをした。
「……寝ていたな。おまえが傍に来て目が覚めた」
瞳にかかる前髪を、煩わしそうに烙は左手で後ろに撫でつける。
「それは起きてたって言うんだよ、馬鹿」
聖は俯き、肩を震わせた。
それでは自分のやった一部始終は、烙に知られているのだ。己の取った行動を思い返すと、恥ずかしくていたたまれなかった。

「そうか ?  別に触りたいなら触ればいい。おまえに触られるのは気持ちいい」

別段気にした風でもなく、烙はいつもの調子で告げる。聖はその物言いに顔を赤くさせ、彼を睨みつけた。
「なんか言い方がいやらしい」
ぶすっとした呟きに、烙が片方の眉を器用に上げる。
「事実だ。ある種の快感だな」

烙の口元が機嫌よさげに弧を描く。
それとは対照的に、げんなりとした聖が頭を抱えて蹲った。

「……あんた、ホントに羞恥心ってものがないのな」
そこから聞こえてくるのは、低く唸るような声。
「俺は事実しか言ってない」
返るのは、笑みを含んだ声。

「事実って……。そういう問題じゃないんだよ。俺が聞いてて恥ずかしい」
烙がすぐ傍まで来て屈んだことは気配でわかったが、聖は動けなった。
「気にするな」
言葉と共に頭に触れた手は、聖の髪をやさしく梳いていく。
髪の間を流れる烙の手がもたらす感覚は、理屈抜きに心地よい。それに気を取られて結局、聖は文句を言い損ねた。
嫌がらずに頭を撫でられている彼の様子に、烙の笑みが深くなる。その瞳があやしく揺らめき。

「このまま食ってしまいたいな」

喉を鳴らすように、烙は低く呟いた。
本能で身の危険を感じた聖が、瞬時に彼から離れて臨戦態勢を取る。不用意に烙が近づくようなら、悪足掻きだろうと拳で一発くらいお見舞いしてやるつもりだった。
だが、その顔からは血の気が引き、見事なほど白い。
聖のあからさまな反応に、烙がクツクツとおかしそうに笑った。

「冗談だ」

今はまだ、な。

心の中でそう付け加える。
事を急くつもりはない。だが、逃すつもりもない。

聖の白かった頬に、からかわれたことに対する怒りのためか、徐々に赤みが差していく。先程よりも更にきつく睨みつけてくる彼の眼差しを受け止め、烙はその顔に妖艶な笑みを浮かべた。
「それにおまえは取り違えをしている」
訝しげな顔をして少しだけ警戒を解いた聖に、烙が残りの言葉を告げる。
「抱きたい、という意味の方だ」

その身をすべて腹に収めたい、という意味合いではない。
聖が勘違いした肝心な部分を烙は訂正する。

意味合いを理解した聖が、顔を真っ赤にして絶句した。その隙をつくように瞬時に近づいた烙は、彼の唇に軽く口付ける。

「理性が持つうちに去るか。おやすみ、聖」

額にも口付けを落とし、烙の姿はその場からかき消える。
聖は全身をわなわなと震わし――。

「あんたのどこに理性があるんだよ !! 」

聞こえないとわかっていても怒鳴りつけ、地団太を踏む。
心の内に溜まっていた鬱々とした何かが、いつの間にか消えていたことに聖が気づいたのは、ずいぶんと後になってからだった。





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2012/03/30
修正 2013/12/29



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