求婚 <12> |
唐突に現れ、背後に立つ存在があった。 そんなはずはないと、人間社会で培われた常識が否定する。 けれど、あの男ならあり得ると本能が肯定する。 それは見知った気配。聖が今、もっとも会いたくない相手だった。 反射的に身を固くした聖はいきなり抱き上げられ、驚いている間に空間転移で自宅まで烙に連れ戻されていた。 我に返った聖が、烙の手から逃れようと暴れる。それが引き金となり、もともと不安定になっていた彼の感情が力を暴発させ、カマイタチとなって烙に襲いかかった。 手の力が弛んだ隙に聖は彼から離れ、自分が仕出かしたことを目の当たりにして顔を歪める。 先程まで流れていた涙は、烙の出現に驚いたことで止まっていた。けれど、聖はいまにも泣き出しそうな顔で彼を見ていた。 「大丈夫だ」 初めて出会った時のように、全身から血を流す烙の姿は一瞬で元に戻る。あの時と同じく、どこからも血は流れておらず、その服に切り刻まれた跡も血の痕跡もない。けれど――。 「……すぐに治っても、痛いことに変わりない」 元通りになったとしても、烙を傷つけたことは事実だ。それに怪我をすれば痛い。よほどのことがない限り死なないけれど、痛覚はしっかりある。大怪我でもすれば、それこそ死んだ方がマシな痛みを味わうことになるのだ。 首を横に振った聖はおずおずと烙に近づき、彼が羽織ったジャケットの裾をちょこんと掴む。 「ごめん」 小さな声で告げた謝罪。 聖には謝ることしかできない。けれど、その言葉も烙の瞳を見て口にすることははばかられた。 項垂れる聖の頭を、烙がクシャクシャと乱暴に撫で回す。 「……何するんだよ」 頭がグラグラ揺れるほど力強く撫でられて、聖はたまらずに彼の手を払いのける。元凶である烙を睨みつけ―― 彼は目を見開き、すぐにまた俯いた。 視線の先で、烙が聖を気遣わしげに見ていた。 怪我をしたのは彼であって自分ではない。そもそも、その怪我を負わせたのは自分だ。どうしてそんな風に見つめられるのか、聖にはその理由がわからなかった。 烙が聖の顎に手を添え、その顔を上向かせ、 「目が赤い」 うっかり忘れていた事実を聖に思い出させた。 烙が現れるまで、聖は泣いていた。勝手に零れ落ちた涙は彼の意思とは裏腹に、なかなか止まってくれなかった。 きっと泣き腫らした目は、烙が指摘するように赤くなっている。 泣いていたなど。しかも、原因がこの男だなど。 本人には絶対に知られたくない。 それなのに目が合った瞬間、心の奥底から何かがせり上がり、聖の瞳からはまた勝手に涙が溢れ出した。 「見るな」 弱々しい抵抗は、烙には意味をなさない。 「何を泣くことがある ? 」 問い掛けられても答えなど浮かばない。知りたいのは聖の方だ。 「あんたなんか、きらいだ」 八つ当たりの如く、嗚咽まじりに言葉を投げつける。 口をへの字に曲げ、必死に涙を堪えようとしてできず、勝手に零れ落ちる涙をそのままにして聖は烙を睨みつける。 「キライ。嫌い。大っ嫌い」 告げるたびに顔を歪め、涙でくしゃくしゃになったその顔に烙が苦笑する。そっと聖の身体を引き寄せ、壊れ物のように彼を抱き締めた。 ピクリと聖が震える。けれど、先程のように抗うことなく烙から己の顔を隠すように、その肩口へと額を押し当てた。 「嫌いでいい。おまえの嫌いは好きの裏返しだからな」 低く穏やかな声が、聖の鼓膜を震わせる。 肯定も否定もできない。混乱する彼は返す言葉を持たなかった。 「おまえだけが俺を殺せる」 昨夜の出来事は聖の記憶に残らなかった。だから、烙はその台詞を再び告げ、彼の髪をやさしく宥めるように梳く。 「……俺にあんたが殺せるわけないだろ ? 」 表情も見えず、聞こえる声はくぐもっていて聖の感情は読み取り難い。けれど、なんとなくだが彼の考えていることが烙にはわかった。 「真名は告げたはずだ」 力の差が歴然だろうと、相手の真名を知ることはその力関係すら逆転させる。 弱者が強者を従えることも、屠ることも可能になる。 それほどの拘束力を持つ特別な名前。それが真名だ。 「愛しい聖が俺の存在を不要と断じるのならば、真名を使いその手で殺せばいい。おまえが下す刃ならば、すべて甘んじて受け入れよう」 出会ったあの日から、聖にはそれが可能となった。けれど、その可能性に気づいていただろうに、彼はそうしなかった。 殺せるわけがないと今もまだ、否定し続ける。 それが意味することは、ただ一つだ。 初めから聖は烙の存在を完全に拒絶しきれていない。 ほんの少しだけ離れた聖が、おずおずと顔を上げて烙の顔を見る。物騒な言葉とは裏腹に、烙がその顔にやさしい笑みを浮かべて聖を見つめていた。 それが妙に気恥ずかしくて、聖は彼からふいっと顔をそむける。 「……なんかすっごく熱烈な告白をされた気分になるんだけど」 思ったことが、ぽつりと聖の口から零れ落ちていた。 「告白 ? 一目惚れだと、初めに告げたはずだが ? おまえに狂っているとも」 心外だとでも言いたそうな烙の声に、聖が困ったような表情になる。 聖とて忘れていたわけではない。 ただ日々があまりにも穏やかで。初めの強引さが嘘のように、烙があまりにも自然に聖の日常に溶け込んでしまっていたから。 彼の中に存在しているはずの狂気にも似た想いは、単に鳴りを潜めていただけだというのに。時折、それが表に現れることがあったとしても、聖が怯えて拒絶する前に彼の中にしまわれていたから―― 根拠のない安堵をしていた。 こんな日々がずっと続くのだと、いつの間にか錯覚していた。 それほどに聖にとって烙は自然な存在に、当たり前の存在に変化していた。 この日々は彼がその想いを押し止めて、聖に生々しさを感じさせなかったから成り立った時間だったというのに。烙の苛烈な想いから逃れる術は、どちらかの死でしかないというのに――。 「愛しいからこそ、食らいたい。その身を、血の一滴すら残さずすべて」 それは紛う方なき烙の本音。これこそが一族の業。 完全に欲にのまれてしまえば、この牙は愛しい者に向く。否、愛しいからこそ、すべてを望む。 そして、愛しいからこそ、その身は甘美な御馳走となる。だが――。 「愛しいからこそ、失えない。その身も、心もすべて。ひと欠片に至るまで」 唯一の存在は己が命と同等。否、それ以上に重い。 この飢えた心は血をすすり、肉を食らい、すべてを腹に収めたとしても満たされない。物言わぬ躯では意味がない。 それはもう抜け殻でしかなく、永久に得られぬまま失うということだ。 狂おしいこの想いに囚われた瞬間から、どのような結果が出ようとも、この狂気が消えることはない。だから、烙は待つことを選んだ。 彼を完全に拒絶しなかった聖が、彼の存在に慣れるところから。 たとえ逃すつもりはなくても。 いつか己の真名を使い、この身に牙をむかれようとも。 烙にとって、すべては聖でなければ意味がなく―― 己が死ぬまで、この狂気を抱え続けるのだから。 「聖が愛しくて、愛しくて、いと……」 「もういい。俺が恥ずかしくて溺死する」 頬も耳も首筋も真っ赤に染めた聖が、烙の口を手で塞ぐ。 まっすぐに向けられる琥珀色の瞳が、甘やかな光を宿していた。そこには狂気の色がチラチラ覗いていたけれど、害意はまったくない。 ただ、彼の瞳はひどく聖の羞恥心を煽った。 「あんたに恥じらいって感情はないのか !? 」 怒ったような声。けれど、言葉ではなんと告げようと、その顔はけして嫌がっていない。たぶん本人は気づいていないだろうが――。 烙は内心、ほくそ笑む。 さて、これにはどんな反応を返すのか。 湿った感触が手の平に当たり―― 舐められたことに気づいた聖が慌てて手を放し、その手を守るように胸元で握り締める。 唖然と言葉もなく、それでも何か言いたそうに震えた彼の唇へ、烙は素早く触れるだけの口付けを贈った。 「昨夜のお返しだ」 機嫌よさそうににクツクツと笑い、意味ありげな視線を寄こした烙に、聖は紅潮させた頬からザッと音が出そうな勢いで血の気を引かせて青ざめる。無意識に烙へと手を伸ばし、縋るように彼のジャケットを掴んでいた。 「…………俺、酔ってあんたに何したんだ ? 」 恐る恐る、朝目覚めた時には怖くて聞けなかった詳細を問う。 初めのグラス半分くらいまでなら聖の記憶にもある。けれど、その後はまったく覚えていない。 自分が彼にいったい何をやったのか、聖は全然知らなかった。 ただ朝の状態から、ひどく迷惑をかけたことだけはうっすら理解していた。それがここにきて―― 記憶にない自分がいることが、これほど怖いとは思わなかった。 わき上がる羞恥心に耐え、逃げ出したい心を抑え込み、聖はなんとかすべてを聞き終えた後、力尽きた。 昨夜の惨状はあまりにもひどく、彼は烙の顔すら見れない。再び抱き寄せられ、今度はしっかりと彼を抱き締めた状態では互いの顔も見えないので、ある意味、幸いだったのかもしれない。 包み込むように背に回った彼の腕を、振り解く気力すら聖にはない。 本気で逃れたいと抵抗すればできるはずなのに、この温もりが手放しがたいほど心地良い。こんな物騒な男の腕の中なのに、なぜか不思議なほど安心した。 ただ――。 「……二度と酒は飲まない」 それだけは固く誓う聖だった。その言葉に一瞬、残念そうな表情をした烙だったが、その顔を聖が目にすることはなかった。 |
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