契約 <6>



エンが小刀を振り回したというのに店内で騒ぎが起きなかったのは、鈴によってある一定の範囲を限定とした人払いがされていたからだ。だが、その作用も実行者が居なくなれば効力を失う。
エンは小刀を仕舞い、すぐにその場から立ち去る。その後を銀は追うが、そんな彼らを怪しむ者は当然、誰もいなかった。

無言のままエンの住む部屋へと帰りついた二人は、リビングでソファーに座ることもなく立ち尽くし、無言で互いの心理を探るように見つめ合う。その奇妙な均衡を破ったのは銀の嘆息だった。
「色々言いたいことはあるでしょう。私もあなたに確かめたいことがあります」
真剣な表情で銀は言葉を続ける。

「契約の内容は、あの男を殺すこと。それで良いのですね?」

エンは無言で頷く。
「では、もう少し詳しく聞かせてください。過去にあなたと、あなたの家族とあの男の間にいったいどのような関係があったのか」
エンの表情が微かに強張り、銀の視線を避けるように俯いた。銀はエンに手を伸ばす。
「あなたの契約者として、制裁を下す者として私には知る必要があります。鈴は掟破りを認めました。こと、掟に関して私達は嘘をつくことが出来ません。そして、彼は更にそれを重ねようとしています。鈴は言葉通り、次はあなたを食らうために現れるでしょう」
髪に触れた手に、エンの肩がビクリと震える。銀は驚かせないようにそっとエンの柔らかな黒髪を梳いた。

「あなたには思い出したくもない記憶でしょうが――」
穏やかでどこか冷たい声が、俯いたエンの上に降る。エンはゆっくりと息を吐き出し、自分を落ち着かせるように息を吸い込み、顔を上げた。
「……あの男が両親を殺したのは、俺が六歳の時だ。どんな関係があったかなんて俺は知らない。俺が訊きたい。突然現れて父を肉の塊にし、母を生きながら食らった。それこそ骨も残らずに……。俺は震えてその光景を見ていることしか出来なかった」

そう。見ていることしか出来なかった。
ただすべてが赤く染まっていく中で、動くことも出来ずに両親の死を見ていた。

噴き出す命の雫。
一瞬で肉の塊となった父。
恐怖に彩られた母の瞳が、徐々に光を失い濁っていく光景。
そして、その母の身体に食らい付き、愉悦の笑みを漏らす男の姿。

逃げることも目を閉じることもせずに。出来ずに、エンはすべてを見ていた。
あの時の自分は、今以上に無力だった。

銀を見つめる、まっすぐな黒い瞳。その瞳に映っているのは、彼と契約した時に見えたものと同じだ。感情の凍った顔の中で、唯一エンの真実を映す瞳を銀はやはりきれいだと思う。けれど、惨い過去に思いを馳せようと、その瞳が涙に濡れることはなかった。

「なぜあなただけ見逃されたのですか?」
エンは抵抗することもなく、銀の好きなように髪を弄らせていた。
「……『おまえで遊んでやる。憎ければ俺を追ってこい。俺を楽しませろ。おまえは俺の玩具だ』あの男は母を完全に食らった後、俺にそう言って去っていった。俺に言えるのはそれだけだ」
なぜ自分は見逃されたのか。エン自身、それは疑問に思っていたことだ。
当時のエンは人外の者とは縁遠い、対処法など全く知らない無知な子供だった。そんな子供、殺すことなど簡単だったはず。けれど、あの男はそうしなかった。

「……そうですか」
しばし沈黙した後、銀は吐息と共にそう呟き、エンを引き寄せた。おとなしくされるがまま、エンは銀の腕の中へと収まる。
彼の話を聞くうちに、銀の中では一つの仮説が出来上がっていた。だが、確信していてもそれをエンに告げる気にはなれない。

この悲劇は一族の業。
今までに幾度も繰り返されてきた、哀しき因業。

そして、銀自身もその可能性を内包している。鈴の言葉通りに――。

「やはりあなたは無防備ですね。私もあなたの復讐相手と同じ種族の者ですよ。もう少し警戒したらどうですか?」
銀がおとなしく抱き締められているエンを見下ろせば、こちらを見ていた彼の瞳とかち合った。
「今のおまえからは全然、殺気を感じない」
無表情な顔と感情を窺わせない平坦な声で言葉を返すエンに、銀は苦笑いする。ある意味、その言葉はひどく的を射た答えだった。

「おまえは矛盾している。俺を殺すと言いながら、俺を無防備だと忠告する。俺は契約さえ守られれば、それさえ見届けられたなら、その後はどうでも良い」

どこまでも生きることに執着をみせないエンの姿に、銀の心はたとえようのない想いで渦巻く。抱き締める腕に力が入り、エンをいっそう引き寄せた。

「あなたはなんのためにこうして生きているのですか?」

問うても意味のない言葉だと思いながらも、銀はそう訊ねていた。
「復讐のためだ」
返ってきた答えは予想と違わぬもので、それが銀の心を締めつける。

エンが心に負った傷は、どれほど深いものだろう。
それを大事に抱えたまま、癒されることを望みもしない。望むことすら考えつかない、彼のこれまでの生を思うとひどくやりきれない。

抱き締めたまま動こうとしない銀に、エンは腕の中から問い掛ける。
「今日、俺を一人にしたのはあの男をおびき寄せるためか?」
感情を見せない、どこまでも静かな声に銀は笑った。悲しそうに顔を歪めながら。
「ええ、そうです。前回の襲撃の際に少し仕掛けましたから。そろそろその違和感を確かめに来ると思っていました。そのためには私が傍にいては初めから警戒されてしまいます。それでは姿すら確認できません。ですが、やはり用心深かった。姿は確認できましたが、影では殺せない」

銀はエンを囮に使った。それが獲物を仕留めるのに一番効率が良かった。

その事実をエンは別段、怒りも驚きもせずに受け止める。時と場合によっては自分でもそうする。家路につく間に推測はついていた。
それが当たったからといって別に動揺することなどない。なのに、心の奥に仕舞い込んでいた何かがざわめき、何かを訴えようとしている。
エンはそれに知らないふりをした。今の自分には必要ない、そう思うことでそれを無視した。

「あなたの言う通り、私は矛盾していますね。あなたを無防備だと詰りながら、その身をわざと危険さらしたのは私自身。私もまた目的のためには手段を選ばない、あの男と同じです」
エンは悲しそうに微笑む銀の頬に、躊躇しながら手を伸ばす。
彼の持つ硬質な色から、もっと冷たいだろうと思っていた。けれど、触れた頬は温かく、確かに彼がここに居て生きていることをその温もりはエンに伝えていた。
銀は唐突なエンの行動に驚き、目を見開く。頬に触れた仄かな温もりと感触が、矛盾した心を包み込む。己の行いが許されたように感じて、そう思ってしまった己自身に銀は内心、驚愕した。

自分がこの無力な人間に許しを求めたというのか。

「おまえはあの男とは違う」
エンは断言する。それに対して銀の心にわき上がった感情は困惑か、歓喜か。はたまた異なる感情か。
「あの男とは全然違う。銀は銀だ。おまえは辛辣な言葉も使うが――やさしい」

自分を表現する上で、これほど相応しくない言葉をもらったのは初めてだった。
冷淡。冷酷。冷血漢。
それが今まで関わってきた者達から言われてきた言葉で、どれも否定する気はない。言われて当然のことをしてきたし、それに対して罪悪感など持ち合わせてもいない。別に事実を言われてもなんとも思わない。それなのに――。

「私がやさしい、ですか?」

銀は戸惑った。そして、その言葉を発したこと自体に思わず顔を顰めた。
無言で頷いたエンに、銀は内心の動揺を隠そうと呟く。
「そんなこと言ったのは、あなたが初めてですよ……」
腕の中の温もりをいつまでも離せないまま、銀は己の変化を自覚し始めていた。





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2009/12/13
修正 2012/01/14



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