契約 <5>



喫茶店を飛び出したエンは足早に廊下を歩いていた。
テンに捕まる前までは書庫に籠って本でも読もうと思っていたのだが、そんな気も失せてしまった。自分がなぜこれほどイラついているのか、理由もわからないままエンは外へと飛び出す。

昼間の街は人々で賑わっている。その中に人外の者も紛れていないわけではないが、主に彼らが活動するのは太陽の光が沈んだ後だ。だからか、目立つ昼間に彼らが人を襲うような騒ぎは滅多に起きない。
そして、こうして昼間に人に紛れているような人外の者は、普通の人間に異質な者と悟らせるようなことはしない。ひっそりとうまく共存していたりするのだ。時に人に紛れ、人間社会で働いていたりもする。
エンはそんな彼らと知らぬ振りですれ違う。相手も協会の人間だとわかっていても、素知らぬ振りをする。それが外での暗黙の了解だった。

そのまま家に帰る気にもならなくて、エンは当てもなく街の中をぶらつく。
次の仕事は三日後ですることもない。ちょうど大型スーパーが視界に入り、そのまま店内に歩を進める。そして、なにげなく日用品売り場を覗いた時だった。
周囲に違和感を覚え、エンは足を止める。

人の姿が、ない……?

そのことに気づいた途端、長年ずっと追っていた気配が急に現れた。エンは勢いよく振り返る。
そこには忘れもしない、憎い男の姿があった。

短く切った薄茶の髪に青い瞳。そこそこ整った顔に軽薄な笑みを浮かべた男。
幼い頃に一度見た、その姿形のままで男はそこに佇んでいた。

エンの視界が赤く染まる。

それは、かつて見た血の幻影。

目の前で両親を嬲り殺し、それだけでは飽き足らず母を食らった男。

隠し持っていた小刀を反射的に抜き、エンは男に振り下ろす。けれど、それは男を傷つけることなくすり抜けた。
「影に切りつけたって俺には傷一つつかんよ、坊や。こうして見えるのは久しぶりだ。思った通りに育ったな。あの女によく似ている」
男が愉快そうに笑う。
エンはすぐに男から離れ、体制を整えた。視線は逸らすことなく男を睨みつけている。

「ただ、その瞳は気にくわん。今ここで潰してやろうか」

笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてくる男に、エンは身の危険を感じて後ろに下がろうとした。だが、身体が見えない何かで拘束されたように動かない。
「その瞳はあの男にそっくりだ」
男の手がエンの瞳へと近づいてくる。その間ずっとエンは目をつぶることなく、男を睨みつけていた。

この男に屈服することなど、たとえこの身が朽ち果てようとありはしない。

眼前まで迫った男の手。けれど、それがエンに触れることはなかった。
彼に触れる直前、何かに弾かれたように男が手を引く。その手から血が滴り、床へと落ちて赤い染みを作った。

なぜ? 小刀では傷一つつけることが出来なかったというのに……。

「……ああ、やはり。おまえ、誰かと契約したな」
変わらぬ笑み。変わらぬ声音。
だというのに、エンの背筋を嫌な汗が流れていく。

「おまえで遊んでいいのは俺だけだ」

笑みを含んだ声がねっとりとエンに絡みつく。
「もう遊びの時間は終わりか。おまえを殺して、あの女と同じく食らってやろう」
エンの身体はいまだに動かない。不快感と息苦しさを気力でねじ伏せ、彼は男を睨みつける。それが今の彼に出来る精一杯の抵抗だった。

「掟破りには死の制裁を」

唐突に二人の間に静かな声が割り込んだ。冷ややかなその声に、男が動きを止める。
「忘れたわけではありませんよね、鈴」
声と共に現れた銀の姿に、鈴と呼ばれた男の顔から初めて笑みが消えた。その顔が非常に嫌そうに歪められる。

「おまえが契約相手か、銀」
「ええ、そうですよ。制裁を与えるのは私の役目ですから」

銀の手がエンの肩に伸び、その身を庇うように自分の後ろへと隠す。その様子を興味深げに鈴は見つめ、わざとらしくため息をついた。
「制裁、ねぇ。ま、いつかはそうなると思っていたが、今はまだ、ただでこの命くれてやる気もない。一旦、引くとしようか」
男はなんのためらいもなく銀に背を向けた。そして――。

「……おまえも気をつけるんだな。自分が掟破りにならないように」

笑みを含んだ声を残し、その姿はその場から掻き消えた。





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2009/12/11
修正 2012/01/14



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