契約 <3>



誰もが寝静まり、夜の帳が下りた時間。眠りを妨げることのない微かな明かりを残し、その部屋の主もまた眠りについていた。
聞こえてくるのは穏やかな寝息のみ。先程まではそうだったが、今は微かな呻き声がその唇から零れている。

そっと寝室内に入り、気配を消してエンの様子を観察していた銀は、その様子にゆっくりとベッドで眠る彼に近づいた。
落ちつきなく寝返りを繰り返すエンの姿に、銀はため息をつく。起きている時よりも眠っている時の方がいっそう幼く、感情豊かで――エンのそんな姿は銀のどこに隠れていたのか疑いたくなるような感情を揺さぶった。
エンの頬を伝う涙をそっと拭って、銀は彼の耳元に囁く。

「あなたを脅かすモノは何もありません。深く、深く眠りなさい。朝の光がすべてを許しその身を照らすまで――」

エンが落ち着くまで、銀はその言葉を耳元で繰り返し囁いた。そして、穏やかな寝息だけが聞こえてくることを確認してから、そっと彼の耳元から離れる。
銀には夜の闇などなんの支障もない。昼間と同じように物を見ることができた。だから、目の前で眠るエンの顔もよく見える。
再び出来ていた涙の跡をゆっくりと右手で拭い、手に残った雫を舐めた。

やはり甘い。

それが、素直な感想だった。

人の生態や文化に興味がないわけではないが、好んで自ら関わろうとは思わない。掟に触れる可能性があるからではなく、それほど関心が持てないからだ。

銀にとって、人とはそんな存在だった。だからか、今まで人の血や肉、体液を甘いと、おいしいと感じたことはなかった。好んで得ようと思ったこともない。それなのにエンに対してはどうだろう。

自由を好み、束縛を嫌った自分。他人の干渉を何よりも嫌悪し、同じぐらい干渉することに嫌悪した自分が、切欠はどうであれ自ら干渉しようとしている。

そのことを銀は他人事のように不可思議に思っていた。
今もこうしてエンの様子を見て、関わってしまった。
血を浴びた後の夜、いつもエンはこうしてうなされる。それを銀が知るのに、それほど時は必要なかった。
彼は必要ある、なしに関わらず、銀が傍にいることを容認して何も言わなかった。だから、銀も必要ある、なしに関わらず、エンの傍にいて彼を観察していた。エンがどんな人間か、興味があった。

それだけだったはずなのに―― なぜだろうか。

あの時言われた言葉に、銀は即答できなかった。いつもの自分なら気にせずに口にするだろう言葉に、一瞬、確かに躊躇いを感じた。

『おまえが俺を殺すのだろう?』

当然のように言われた言葉を思い出す度に、銀の心の内は揺れ動く。

「……細い首、ですよね」
小さく呟き、眠るエンの首に手を宛がう。銀の言葉に深い眠りに入ってしまったエンはちょっとやそっとでは起きない。
「このまま力を入れたら簡単に折れてしまいそうです」
幼い寝顔。眠っている時にしか表に現れない、彼の涙。
強い感情を映す黒い瞳が隠れ、無防備になっているためか。普段は奥にひっそりと仕舞われているエンの感情が、眠っている時には銀にも自然に伝わってきて、それが長い間揺るぎなかった彼の根幹を揺さぶろうとしている。
そのことがどれほど想定外で、由々しき事態であるか。この青年は知るはずもない。否、彼が知る必要などないだろう。

そっと首から手を離し、その手を涙の拭われた頬へと再度伸ばす。

「私はあなたを殺せるでしょうか?」

触れた頬は柔らかく温かい。それはエンが確かに生きている証だ。
そっと撫でて銀は呟く。
「このままあなたの傍にいたら、私自身があなたに囚われてしまいそうですね」
その声は普段からは考えらないほど力無い。

離れようとした銀の手を追うように、無意識にエンが頬を擦り寄せる。その起きている時では想像もつかない姿に、銀の中で何かが音を立てて壊れた。
「……本当にあなたって人は、無防備すぎます。エン、少しは自覚してください」
深々とため息をつき、銀はエンから離れた。姿は見えるものの手の届かない所に置かれた一人掛けの椅子に深く身を預け、天井を仰ぐ。

「囚われてしまいそう、ではないですね」
銀は苦笑した。なんてことだろう、と。
そんな所はとうに通り越していた。ただ、銀が自覚していなかっただけだ。
「まだ子供だ……」
らしくなく、言い訳のように呟く。

永い時を生きてきた銀にすれば今、生きている人間は誰もが子供だ。だが、それを抜きにしても、人間としてエンの歳は若い。成人はしているだろうが、それほど子供と大差ない。歳も中身も、だ。
甘え方のわからない、突っ張っている子供。ただ、その子供が無意識に甘えてきただけのこと。普段なら命知らずだと冷笑する所だが―― 銀は歓喜した。
何事にも無関心で生きてきた自分が、たかがこれくらいのことに歓喜……。突き付けられた明確な答えを否定できるはずもない。

「どうやら私はあなたを殺したくないみたいです」

眠るエンに向けて銀は呟く。その声は彼に届くことなく、そのまま夜の闇に溶けて消えた。





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2009/11/29
修正 2012/01/13



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