契約 <2>



エンの追う男は挑発するように度々その形跡だけを彼の前に示す。まるで追って来いとでも言うように。彼がたどり着いた時には、その姿形はどこにも見つからない。そんな繰り返しだった。
そんな中たまにエンを試すように罠を張っていく。これで死ぬのならそれまでだとでも言いたげに――。

今回の場所にもそんな罠が張ってあった。
オフィスビルの一画。あまり使われず物置になっていた一部屋に、二人は居た。
エンが全身黒い服をまとっているために目立ちはしないが、その身は返り血に染まっている。その姿を少し離れた場所で眺めていた銀は組んだ腕はそのままに、傍観を決め込んで寄りかかっていた壁から背を離した。

「なぜ私に命令しないのですか?」

契約に縛られた関係。
銀はエンが使役する人外の者だ。わざわざエンが手を下さずとも、こうして血濡れにならずとも、一言命じれば銀が処理する。それこそ血も流すことなく一瞬で無に還す。

銀はずっと傍観していた。いつ命令するかと、彼はエンの姿を見ていた。けれど、エンはいつまで経っても銀に一言も命令しない。それどころか傍観する銀に何も言わない。
そうしてどのくらいの人外と相対するエンの姿を見てきたか。人外にかかわることを生業としているらしい彼は、こうして血を浴びる機会もかなり多い。
傍観することにも、沈黙することにも銀は嫌気が差したからそう問い掛けた。だというのに――。

「契約内容はあの男を殺すこと。それだけだ」

無表情な顔をエンが銀に向ける。その意思を宿す黒い瞳は、銀にそれ以上のことを望んでいなかった。
銀が嘆息する。組んでいた腕を解き、顔に落ちてきた髪を手でうっとうしげに払いのけ、エンの傍に移動してその頬に手を伸ばした。

「あなたは正真正銘の馬鹿ですか。契約した時にも思いましたが、自分の命というものをもう少し大事にしたらどうです?」

戸惑い無防備に立ち尽くすエンの左頬を、そのまま銀はムニッと摘み引っ張る。
物言いたげな瞳で見上げてくるエンに、銀は一見無害そうに微笑んだ。
「それを私が言うな、とでも言いたそうですね。ええ、そうでしょう。私もそう思います。ですが――」
そこで言葉を区切り、さらにエンの左頬を引っ張る。それにはさすがのエンも痛そうに顔を歪めた。

「ここまで生きることに無頓着だと、見ている方は逆に腹が立ってくるものなのですね。私も初めて知りました。あなたは無防備すぎる。だから――要らぬ傷を負う」

頬から手を離し、銀はだらりと垂れたエンの左腕を取った。
彼の服を濡らす赤は、ほとんどが返り血に過ぎない。ただし、この左腕の赤の何割かは、彼の血によるものだった。
「たとえ一時といえ、あなたは私の使役者になったのですよ。私を使いなさい」
まるで諭すように囁かれた言葉に、エンは無表情なまま首を捻った。その様子に銀がため息をつく。
「わかりました。いいです。私が勝手にしますから」

この様子では、銀の苛立ちの理由など全く理解していないに違いない。そして、それをこれから長々と説明しても、彼は理解してくれないだろう。
早々に悟った銀は、話す前から諦めた。

エンが何か言いたげに口を開きかけたが、銀はそれを遮る。
「治療をと言いたい所ですが、色々後始末を先にしましょうか」
エンを攻撃するでもなく、気配をほとんど絶ってこの場の状況を傍観する者がいる。たぶんエンの追う男が、この場の様子を知るために放った監視のための下っ端だ。
人であるエンはその存在に気づいていないだろうが、その方が銀にとっても都合が良い。銀は煩わしい気配をさっさと消しにかかった。

エンの腕を掴んでいるのとは反対の手を、銀は闇と血溜まりの空間に向けて無造作に振る。
動作はたったそれだけ。言葉を発することもない。
だが、先程まであった闇と血溜まりはそれだけできれいに一掃してしまった。その瞬間、まるで悲鳴のような消え入りそうなほど小さな甲高い音がエンの耳に届いた気もしたが、それも気のせいかもしれない。
そこに残っていたのは元々この部屋にあったであろう椅子と机だけだったが、それも先程のエンの戦闘で壊れて使い物にはならない粗大ゴミと化している。
「……何をやった?」
視線の先で起きた出来事に、エンは驚愕の表情のまま銀を見上げた。
「ただ単に捨てただけですよ、無の空間に」

その空間に入った瞬間に、その存在は跡形もなく消える。それが無の空間。

エンはその存在を知識として知っていた。けれど、普通ならこんな簡単に開けて閉じることなどできない代物のはずだ。下手をすれば開けた本人が吸い込まれ、存在を消されることにもなりかねない。

「私にとってこれしきのこと、たいしたことではありません。さて、それでは治療しましょうか」
なんでもないことのように言って、銀はエンの腕の傷に左手をかざす。その手から淡い銀色の光が溢れ出した。
「治癒はあまり得意ではないですが、これぐらいの傷なら大丈夫でしょう」
やり出してから不吉な事を呟いた銀に、エンの眉間が微かに寄り皺を作る。
「別に治さなくてもこれぐらいの掠り傷、すぐに治る」
エンは銀から自分の腕を取り戻そうとしたが、思ったよりもしっかりと拘束されていたらしく彼の手は外れない。
「掠り傷と言うにはずいぶん深い傷だと思いますよ? それに人外から受けた傷は、普通の傷より治りが遅いはずです。おとなしくしていなさい」

銀の言葉はどれも的を射ている。けれど、先程の言葉を聞くとさすがに素直に身を預けるには不安があった。
「私の先程の言葉が気になりますか? 確かに治癒は得意ではありません。滅多に使うこともありませんし、そもそも私には必要ない物ですから。それでもこの程度なら大丈夫ですよ」

言葉で話さなくても銀はエンの言いたいことを苦もなく言い当てる。それほどわかりやすい表情をしているのだろうかとは思うが、今まで自分の感情をこうも言い当てられたことなどまったくない。逆に何を考えているのかわからない、という言葉をよく言われていたぐらいだ。

「私があなたの言いたいことがわかるのは、あなたの考えを読んでいるからです。――さて、治療は終わりましたよ。今日一日はあまりこちらの腕は使わないでください」
腕を解放されても動かないエンを、銀は訝しげに見る。その瞳にエンの動揺を悟って、彼は微笑んだ。
「冗談ですよ、冗談。、そんなことしても面白くないですから。それにあなたの考えていることぐらい私には手に取るようにわかりますから、態々そんなことする必要もありませんね」
一度は解放した左手をわざとらしく恭しい態で持ち上げ、銀は手の甲に唇を寄せる。けれど、その青い瞳はエンの瞳を見つめ、彼の動揺する様を楽しんでいた。
手の甲に付いた血をゆっくり舐め取られ、エンは無表情に硬直する。

「余分な物が入っているせいで味は落ちていますが、それでもあなたの血はおいしいですね」

人外の者には人の血や肉を好む者もいる。銀もまた、そういった部類に入るのだろうか。いちおう彼を呼び出す前に彼の一族に関する閲覧可能な資料はすべて目を通したつもりだが、もともと資料自体が少ない。わからないことも多いのだ。

「……お子さまには刺激が強かったですか?」

からかう言葉にエンの無表情が少しだけ崩れ、不快げに歪む。銀に取られた手を乱暴に取り戻し、無言で彼に背を向けてエンは歩き出した。
その背に向けて、銀は口を開く。朗々とした声が静まり返った空間に響いた。

「一つ、教えておきましょうか。私の種族は言ってしまえば雑食です。なんでもこの身の糧にできてしまうために、口にするものはその者の持つ性質、好みによります。ですから、者によってはあなた自身が十分美味なご馳走になります」

警告とも取れるその言葉に立ち止り、エンは振り返った。
銀はまだ先程の場所に立ったまま、動こうともせずに彼を見ていた。その顔には先程まで浮かべていた笑みはない。

「おまえが俺を殺すのだろう?」

明日の天気でも話すような口調で問われ、銀が目を見張る。そして、その表情を取り繕うように、その顔に微笑みを浮かべた。

「……そうですね」

銀は呟くように答え、エンに向かって歩き出す。彼が追い付くことも待たずに、エンは再び歩き出した。





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2009/11/19
修正 2012/01/13



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