契約 <1> |
解けるはずもないほど雁字搦めになった契約の戒めに抗い地に膝を着く男を、青年は上から見下ろす。 「無駄だ。その契約に絡め取られた時点で、おまえはもう俺のモノだ」 感情すら凍りついたような冷えた声に、男は顔を上げた。 服の上からでもわかるしなやかな体躯に、剣のように硬質な印象を与える長い髪。そして、そこから覗く人間離れした顔立ち。 冷たい色を宿した青い瞳が静かに青年を見据える。 「私を捕らえたこと、いつか後悔させてあげます」 男から向けられた殺気に、青年は動じることもなくその瞳を見つめ返す。 「殺したければ殺せ。ただし、俺の目的を果たした後だ」 男の瞳に映ったのは、全身に黒をまとった青年の姿。 短く切られた艶やかな黒髪と黒い瞳。そして、黒い服。それに相反する白い肌が青年のまとう黒をいっそう際立たせていた。 感情を削ぎ落としたようなその無表情な顔はまだ大人に成り切れていない、脆さを内包するような、そんな危うさを孕んで見える。 ただ、彼の瞳だけはその印象を裏切るかのように、静かな決意を揺らめかせていた。 「目的とは?」 その瞳に興味を持ち、男は抗うことを止めて問い掛けた。 「ある男を殺すこと」 「……復讐、ですか」 興を削がれて嘆息した男を気にもせず、青年は「そうだ」と頷く。 「……他を当たってください。そんなものに興味はありません」 少しだけ付き合ってもいいかと思ったから問い掛けた。けれど、返ってきた答えは男にとっては最も忌避するものだった。 そんな面倒で厄介なことに関わっても面白くないし、何より自分にはなんの益にもならない。 再度、戒めから逃れようともがき出した男に青年は問い掛ける。 「その男がおまえの同族だとしても、か?」 その言葉にまた動きを止め、男は訝しげに青年を見上げた。 「変ですね。基本的に人間に関わることは禁じられているはずですが――」 例外がまったくないわけではない。けれど、それが起こること自体珍しい。 今、男が陥っている現状もまた、例外の一つではあるのだが――。 「俺の家族は何もしていない。ただ静かに生きていただけだ。平和に暮らしていただけだ。なのに、惨たらしく殺し、俺から奪ったそいつを俺は許さない。俺で止めを刺せるなら、刺し違えてでも殺っている」 黒い瞳が青年の意思の強さを示すように煌めいていた。 怒り、哀しみ、絶望。 憎しみ、切望、死。 負の感情を宿しながらも、暗く沈み込むことのないその瞳を、男は純粋にきれいだと思った。 人に男の同族を殺す力はない。 人に似て、否なる種族。 人よりも強靭な肉体と強大な力を持ち、永遠に近い時を生きる者。 人外と言われる生物の中で、頂点に立つ存在。 それが男の属する種族だった。 確かに不老ではあるが、不死ではない。 けれど、脆弱な人に殺せるほど弱くもない。 人の力ではせいぜい致命傷にはならない傷を負わせるのが関の山だ。 殺せるのは同族の者だけ。 青年の取った方法は、彼の目的を果たすには最適な方法だった。それに男を選んだことも――。 「契約してさしあげます。ただし、期間はその男を殺すまでの間だけです」 掟を破った者には、死の制裁を。 一族を束ねる立場にある男には、その権利と義務がある。 男は男の目的のために、青年と契約を結ぶ。 脆弱な人が己の身を守るために生み出した諸刃の剣。 男の種族が己の制約を解き放つために受け入れた術。 それが契約。 男の全身に絡みついていた契約の楔は、右手の甲から腕へと走る複雑な紋様を残して溶けるように消えた。 「その後のあなたの命は保障しませんよ」 「かまわない。俺は目的さえ果たせればそれでいい」 立ち上がった男を、青年はまっすぐに見つめた。 二人の視線が絡まる。そうして無言で見つめ合うも、けして逸らされることのない瞳に男は表情を和らげ、初めて微笑んだ。 「私のことは銀と呼びなさい」 それは呼び名であって真名ではない。けれど、名を告げられたことに青年は驚き、わずかに表情を崩した。 名とは己の存在を縛るもの。呼び名にその威力がなくとも、男の種族は人間に名乗りはしない。たとえそれが呼び名だとしても。 それが通説だった。 青年は多少躊躇いつつも口を開く。 「俺はエンだ」 これもまた呼び名であり、真名ではない。 真名を隠すこと。それは人が人外の者から身を守る術の一つだった。 「エン、ですか。少しの間でしょうが、よろしくお願いしますね」 差し出された右手を、青年は戸惑うように瞳を揺らして見つめる。 「自由を束縛されたことに関してはとても不愉快ですが、今はとりあえず目をつぶります。たとえ一時とはいえ、行動を共にする相手といがみ合っても疲れるだけですから」 少し待っても手を取らない青年に男は苦笑した。 「私を束縛できたあなたの力量に敬意を評して――」 契約は人にとって諸刃の剣。力無き者は契約するまでもなく自滅する。 まして今回の契約相手は人外の頂点に立つ種族の、それもその種族を束ねる者だ。男の譲歩があったために成立した契約とはいえ、それも相応の力と技術があってこそ成り立つもの。 幸か不幸か人間にしては珍しいほど強い力と卓越した技術を青年が持っていることは、その事実が証明している。 青年は躊躇いながらも男の手を取った。 契約の元に成り立った二人の関係は、ここから始まる。 |
************************************************************* 2009/09/21
修正 2009/11/29 |