契約 <12> |
エンは涙が枯れるほど泣き続けた。止め処なく勝手に溢れてくる涙に、自分でもなぜこれほど泣けるのかわからなくなってきていた。 復讐を終えたというのに心は全く晴れない。 ぽっかりと空いてしまった穴が、ひどく空しかっただけだ。 そんなこと初めからわかっていた。 失われたモノは二度と戻って来ないと――。 銀は幸せになれと言った。けれど、エンは思う。幸せとはどんなものだろうと。子供の頃感じていただろうそれを、エンはもう思い出せない。 ただ、銀が傍にいた日々は限りなくそれに近かったような気がした。契約で結ばれただけの日々。でも、それは穏やかで安心できる日々だった。 銀はもっと貪欲に望んで良いと言った。それならエンは彼を望む。 銀の傍に居たいと、彼と共に生きたいと。 二人で同じ思いを抱いたというのに、自分達はすれ違ってしまった。 それを正して何が悪い。 涙を拭い、泣き腫らした顔でエンは銀を呼び出すために契約紋を描き始めた。 過去に何度も失敗して描き直したそれを記憶の底から引っ張り上げ、一つの間違いも無いように描いていく。 線の一つ、点の一つでも間違えれば、召喚は成り立たない。そこまで描き上げた時間も労力もすべて無駄になる。 だから、エンは筆を紙に走らせ、緻密な契約紋を描くことだけに意識を集中させた。 そして、数時間後。出来上がったそれにほっと息を吐き出し、筆を置く。 あとは呼び出すための呪を唱えるのみ。銀が応えて現れるかは賭けだった。けれど、一度で無理なら何度でも彼が応えるまで行えば良い。この命が尽きるまで――。 エンが唱えた呪に呼応するように、契約紋は白色に輝く。けれど、そこから銀が現れることはなかった。 契約紋が輝いたということは描いたものに間違いはないということ。 銀が呼び出しを拒絶したのだ。その事実にエンの胸は鋭く痛む。それでも一度の拒絶で諦められるような気持ちではなかった。 それからエンは必要最低限の衣食住以外のすべての時間、銀を呼び出すために使った。契約紋を作動させるためにはかなりの力がいる。エンは日に日に己が弱っていくことを自覚していたが、けして止めようとはしなかった。 ここで諦めれば二度と銀には会えない。 そんな強迫観念に囚われ、不安と悲しみに押しつぶされそうな心を必死で押し止めていた。 そして、一週間が経った。 エンはフラフラしながら、今日も契約紋を作動させた。白色の光で輝いた紋が変化なく、静かに光を失っていく様にまた拒絶されたことを知る。 エンは落胆し、力なく床にそのまま寝転がった。もう起きているのも辛かった。霞んでいく意識に、このまま死ぬかもしれないと他人事のように思う。 それもいいかとエンがぼんやりと考えた時、ふと部屋に自分とは別の気配があることに気づいた。 「なぜこんな無茶をするのですか!」 怒ったような声とは裏腹にそっと優しく抱き上げられて、エンは瞳を開けた。 聞きたかった声、触れたかった温もりがそこにある。 エンは重い腕を必死で動かし、銀に抱きついた。その瞳からは枯れたと思った涙がポロポロと零れ出し、銀の胸を濡らす。 腕の中で子供のように泣き出したエンに、銀は困惑の表情を向ける。今まで起きている時にエンが泣いている姿など見たことがない。 離さないとでも言いたげに必死で自分にしがみついてくるエン。その様がまるで自分に執着しているように見えて、銀の心が喜びに震える。 二度とエンの前に姿を現すつもりはなかった。 己の作った空間で、独り、朽ちていくことを望んだ。 この消えることのない、狂いそうになる恋心を抱いたまま――。 エンが自分を呼んでいる。それに気づいていた。 拒絶していれば、すぐに諦めると思っていた。 けれど、いつまで経ってもそれは止まない。 召喚が人にとってどれ程負担になる行為か、銀は知っている。 だから、このまま召喚を続ければエンの命が無いこともわかってしまった。 だから、駄目だとわかっていながら、それでも姿を現してしまった。 なかなか泣き止まないエンを宥めるように、銀はその髪を何度も梳く。ゆっくりと落ち着きを取り戻して、涙の止まったエンが瞳を赤くしながら銀を見た。その手はいまだにしっかりと銀を捉えている。 「……契約を。俺の傍に。銀と一緒に生きたい。人の一生はおまえにとって瞬き程の短い時間でしかないだろう。その時間を俺にくれ。俺はおまえと生きたい」 所々つかえながらエンはそれでも言い切ると、じっと返事を待つように銀の青い瞳をまっすぐに見つめた。 銀はゆっくりと息を吐き出し、困ったように笑う。 「まるでプロポーズみたいですね」 その言葉にエンは自分の言った言葉を振り返り、顔を赤くした。言われるまで気づかなかったが、確かにそう聞こえる。 「契約はしません」 銀はきっぱりと言い切った。その言葉にサッと音を立てたようにエンの顔から血の気が引き、その瞳が悲しみに染まっていく。 そんな顔をさせたくない。 けれど、確かめなければもう、どこにも進めない。 「先日、私があなたに言った意味はこういうことです。わかっていますか?」 エンの顎を捉え、銀はそっとその唇に触れる。 「エンを愛しています。あなたの全部を私にくれますか? 私は心が広くない。あなたが心変わりしても、それを許すことは出来ません。その時はあなたの命諸共、血の一滴に至るまで食らってしまうでしょう。それは、かつて目にした血の光景があなたの身にも降り掛かるということです。それでもあなたは私の伴侶になりますか?」 今ならまだ見逃してやれる。銀の瞳はそう語っていた。 このまま一族の業にのみ込まれてこの身を破滅へと導こうとも、それは自分だけで良い。だから、あの時、別れを告げたのだ。 銀はその顔に悲しそうな微笑を浮かべ、エンの答えを待った。 「俺の名は、エンジュだ」 自ら真名を告げて、エンは銀の唇にそっと触れるだけの口付けを贈る。 「エンジュ」 茫然とした様子で呟かれた言葉に、エンは微かな笑みを返す。 永い間凍りついていた心は今、完全に溶けていた。面には表れなかったエンの感情が少しずつ、まだ多少のぎこちなさを残しながら表情を形作っていく。 「……私の名は、琉銀です」 真名は特別な物。 それを自ら告げる行為は、その身を相手に支配されても良いということ。 「琉銀」 エンの紡ぐ己の名が甘く心を満たす。銀の顔に自然と甘やかな笑みが浮かぶ。 「俺はおまえが好きだ。言ったな、俺は幸せを望んで良いって。だけど、俺は幸せがどんなものだったか忘れてしまった。おまえとならそれがどんなものだったか、見つけることが出来ると思う。だから――」 ―― 傍に。 あの血の光景は忘れられない。 恐怖も、絶望も、怒りも、悲しみも。風化しないまま、エンの中で燻っている。 けれど。 エンがこうして生きている理由は、銀がいるからだ。彼のいない生に執着などない。いつかその手でこの生を終わらすことになったとしても、それも本望。後悔などしない。 あの時、願ったのだから。 死ぬのなら、銀の手にかかって死にたい、と。 「私はあなたのモノです、エンジュ。この恋は一生に唯一つのモノ。あなたは私の生涯で唯一人の伴侶です」 自然と二人は唇を重ね合わせ、深くお互いの存在を求めた。 徐々に銀の腕にエンの重みがかかり、その身から完全に力が抜けたのがわかる。体力は格段に落ちていたし、気力も限界だったのだろう。安心したことも原因かもしれない。 気を失うように眠りに落ちたエンを抱き上げて移動し、銀はその身をそっとベッドに横たえ、風邪を引かないように肩まですっぽりと掛け布団で覆う。 ベッド脇に腰掛け、眠るエンの顔を覗き込む。先程の口付けで赤く色づいた唇を軽く啄み、銀はその耳元で囁いた。 「愛しています、エンジュ。良い夢を――」 銀はエンの寝顔を見つめ、それは幸せそうに微笑む。 杞憂は尽きない。 けれど、出会わなければよかったとは思わない。 それはこの先どれほど時が経とうと変わらないだろう。 唯一人。 あなたのために生き、この命を散らそう。 <完> |
************************************************************* 2010/01/05
修正 2012/01/14 |