契約 <11>



鈴の手がエンに触れる直前。唐突に暴風が吹き荒れた。
背後に感じる温もりに、ふわりと回された腕に、エンは振り返らずともそれが誰かを悟った。
「すみません。遅くなりました。―― 間に合ってよかった」
力の籠った腕に、安堵を吐き出すその言葉に、エンの心が歓喜に震える。
「契約の履行をします。この先をあなたに見せるのは忍びないですね」
そう言って銀は片手でエンの両目を覆った。片膝をついてこちらを苦々しそうに見つめる鈴の姿が見えたが、それもすぐに闇に隠れてしまう。

「ミイラ取りがミイラになった、か」
鈴の言葉に、銀は無言で返した。その様に鈴は肩を竦め、ゆっくりと立ち上がる。その身は先程の暴風の威力もあってか、全身を己の血に染めていた。
「ゲームオーバーだな。まあいい。そろそろ生きることに厭きていたからな。坊やは食えそうもないし、おまえのそんな顔も見たことだし、大人しく掟に従って殺されてやる。さっさと殺れ」
そう言った鈴が顔に浮かべたものは、ひどく疲れた、老成した者が見せる笑みだった。乾いた、それでいてすべてを悟った笑み。
先程まで見せていたエンへの執着は、どこにもない。

「……一つだけ聞かせてください。あなたは後悔しなかったのですか?」
一族の業に捕らわれた者に、今まで一度もそんなことを訊ねたことはなかった。けれど、銀は初めて彼らの言葉を聞いてみたいと思った。
誰もが制裁を行う銀に対し、刃向おうとはしない。結局、その死を受け入れる。
「おまえは後悔するのか?」
鈴は銀の問いに問いを返した。それがすべての答えだった。

恋したことに後悔などない。この恋に己のすべてをかけることに。
たとえそれが己の身を滅ぼそうとも――。

本当ニ 欲シカッタ モノ ハ 永遠ニ 手ニ 入ラナイ
己ガ コノ手デ 壊シテシマッタ……

「俺は生き過ぎた……」

それが鈴の最期の言葉だった。
その身は銀色の光に包まれ、焼かれるように形を無くし空間に溶け、そこにはもう何も残っていない。
すべてを見届けた後、銀はエンの両目を覆っていた手を外し、その身を開放した。エンの視界の先には何もない。
銀に視界を塞がれている間、徐々に鈴の気配が弱々しくなり消えたのは感じていた。それは別の場所に移動したというより、消滅したという方が正しいような感じだった。首を廻らしてもどこにもあれほど憎み、追い続けた男の姿はない。

「契約は履行されました。あなたと私の契約もこれで無効です」
その言葉を証明するように、銀の右手の甲から腕へと走る複雑な紋様が消えている。それを認めてエンは銀と向き合った。
「そうか」
ただ一言、そう答えて銀を見つめる。静寂が支配する空間の中、二人は無言で見つめ合った。

「……おまえは俺を殺すのだろう?」

契約の終了はエンの死を意味する。
銀に殺されるならそれも良いと、エンは沈黙を破り問い掛けた。
エンの瞳に映る凪いだ意思。初めて見つけたその色は銀の心に波紋を広げる。

「…………あなたは今でも死を望みますか?」
「おまえが俺を殺すというなら受け入れるだけだ」

エンは銀の頬に手を伸ばす。触れた温もりがエンの心をやさしく満たした。

「そんな痛そうな顔をしなくていい」

復讐が果たされた今、本来ならエンに心残りなどないはずだった。予定外にできた心残りは銀の存在だが、それも彼の手でこの身に死を賜ってくれるというのならそれで十分だ。

この恋心は伝えることなく、黄泉路まで抱いていけばいい。

初めて見たエンの微笑みに、銀の心が激しく揺さ振られる。その衝動に突き動かされるように銀はエンの身体を引き寄せ、強く抱き締めた。
「……もうあなたの命など望んでいません。エン、あなたはこれからあなたの人生を全うしてください」
エンは銀に抱き締められたまま、言われた言葉に驚愕した。銀の言葉にも、その声が少し震えていることにも。
その顔を見ようともがくが、銀に阻まれそれも叶わない。

「これは私の我が侭ですから聞き流してくれても良いです。ですが、言わせてください。エン、生きて幸せになりなさい。あなたはそのために生かされたのです」

いっそう銀の腕に力が込められ、抱擁は痛いほどだった。

「あなたの傍に居たい。一緒に生きたい。けれど、私は自分の欲望に負けて、いつかあなたを殺してしまうでしょう。だから、さよならです。エン、幸せになりなさい。あなたはそれをもっと貪欲に望んでいいのですよ」

愛しい。だからこそ、傍に居てはいけない。
たとえこの心が壊れようと。この身が業にのまれて狂おうと。
それに彼を巻き込みたくない。否、巻き込んではいけない。
これ以上はもう――。

抱擁は唐突に解かれ、銀の姿はエンの前からかき消えた。
そこはエンの部屋だった。いつの間にか銀はエンを抱いて移動していたのだ。

エンは部屋の真ん中で立ち尽くす。頬を何かがたどり、床にぽたりぽたりと丸い染みを作った。それをしばらく呆然と見つめて、エンは自分が泣いていることに気づく。

雫は止めどなく頬を伝って落ちていく。
それを受け止める者は、誰もいない。

エンは静かに、声も無く泣き続けた。





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2010/01/04
修正 2012/01/14



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