契約 <10>



「たとえこの身が屍に変わろうと、おまえに食われる気はない」

エンは頬を流れる血を拭いもせずに、刀を構え、憎い男を睨みつける。
時を遡ること数分前。
銀とほんの少し離れた隙をつくように、エンは別空間へと引っ張られた。そこに居たのは、両親の仇。咄嗟に持っていた刀を抜いて振りかぶるも簡単に薙ぎ払われ、エンの頬を鈴の鋭く尖った爪が裂く。
警戒するように距離を取ったエンに、鈴は見せつけるように爪に滴った彼の血を舐める。
「あの女ほどではないが、坊やの血もうまいな」
満足げに目を細めた鈴に、エンは宣言した。食われる気はない、と。

鈴はにやりと笑う。
「坊やに俺は殺せない。それとも銀を当てにしているのか?」
エンの警戒をものともせずに、ゆっくりと鈴は彼に向って歩き出す。エンは構えを解かないままじりじりと後退りした。
「ここは俺が作った空間だ。あいつでもそう簡単には入れない。来る頃にはおまえは俺の腹の中だ。銀がどんな顔をするか楽しみだな」
無限に広がっているかに見えた空間にも終わりがある。背に当たった透明な壁に、エンは覚悟を決めた。

クツクツと喉の奥で笑う鈴を睨み据え、ポケットから数枚の紙を取り出す。
ただの紙ではない。特別な紙に呪を描き、力を込めた呪符と呼ばれる物で、これはエンが改良した特別製だった。試作段階ではあるが、使ってみる価値はある。

鈴はエンが取り出した呪符を見て嘲笑った。
「そんなちんけな物で時間稼ぎでもするつもりか」
馬鹿にしたような声の響きに、エンは無言を貫いた。ここで怒りと憎しみに我を忘れてしまえば、相手の思う壺。復讐を果たすことなく死が待っている。

エンは呪符の発動のために意識を集中させ――。
「散開」
短く呪を唱え、手に持っていた呪符をすべて中空に放った。呪符は意思を持ったかのように宙を舞い、鈴を囲うように広がる。
「縛」
呪符から鈴を拘束するように、銀色の光が糸のように幾重にも放たれた。その光に鈴が初めて驚いたような表情を見せ、足を止める。光は鈴に絡みつき、その根を地へと張り巡らせて彼の動きを拘束した。

一般的な呪符の使い方は一発物。攻撃して終わり、といった瞬間的な物が多い。なぜなら符に込められる力は限られており、持続が必要な呪を使うには力が足りないからだ。そして、符に力を留めるのは簡単な作業ではなかった。
だからか、最近では呪符を使う者はほとんどいなくなっていた。一般人が護身用に持つ分にはいいかもしれないが、エンのような人外と相対する職に就いている者が使うにはあまり使い勝手も効果も期待出来ない。
それをエンがわざわざ使った理由は、呪符に込められた力がエンではなく銀のものだからだ。

呪符の利点は、使い方を知っていれば誰にでも使えることだ。使う人間に力がなくても、呪符に込められた力を使って呪が発動する。
だから、エンは考え、銀に協力を頼んだ。銀の力を呪符に込めて使えば、人間の自分でも多少は渡り合えるのではないかと。銀は初め渋ったが、最終的には協力してくれた。
最初の頃は、銀の力に耐えきれずに力を込めた時点で符が燃えてしまった。けれど、色々改良を加えてなんとか力を留めることに成功した。それが今使った呪符だ。実際に使えるかは賭けだったが、どうやら狙い通りに作用したらしい。

操り人形のように動きを止めた鈴の姿を見て、エンは成功を悟った。けれど、まだ油断はできない。
これを作った時、銀の言った忠告をエンはしっかりと覚えていた。

『この符に込められた力では、鈴を殺すことは出来ません。これでは足りない。間違ってもこれで攻撃するような愚は犯さないでください。それでは無駄死にです。この符で出来ることは所詮、時間稼ぎ。そのことを忘れないでください』

そう。所詮は時間稼ぎでしかない。
呪符の欠点は、符が燃えれば呪の効果が消えてしまうということ。符に込めらた力を使い切って燃え尽きるか、呪に耐えきれずに燃え尽きるか、それとも鈴に燃やされるか。どちらにせよ、いずれ符は燃え尽きる。

鈴を警戒しながらエンは次に取る行動を思案していた。今、銀は傍にいない。自分がこの後取れる行動は、この隙に逃げるか、それとも無謀を承知で牙を剥くかだ。
鈴が大人しく捕まっているわけもなく、忌々しそうに己を拘束する光の元、呪符を見ている。銀色の光を放つ呪符にじわりじわりと赤茶けた光が絡みつき、飲み込もうとしていた。

「……忌々しい。おまえは俺の玩具だ」
呟きはエンの心の奥底を刺激する。
「誰がおまえの玩具だ。俺は俺だ。誰の物でもない」
押し殺した声がエンの口から零れた。今まで押さえつけていた怒りが込み上げ、それに呼応するようにエンの手にある刀が白炎に包まれる。
「あの女と同じ顔をして俺を否定するか。まあいい。食えばそれも無意味。俺の一部になるだけだ」

呪符に宿る銀色の光はもう残り僅か。赤茶けた光が徐々に呪符を燃やしていた。もはやすべて燃え尽きるのも時間の問題だ。

閉じた空間の出口を見つけることは、エンには出来ない。それならば――。
エンは決断した。意識を集中させ、今の自分が持てるすべての力を刀に注ぎ込む。機会は一瞬。呪符が燃え尽きた瞬間にこれを叩き込む。

呪符が燃え尽きた瞬間を狙って、刀がまとった白炎は鋭い刃と化して鈴を切り刻んだ。まるでかまいたちにでもあったかのように、鈴は所々に傷を負い血を流す。それでもそれが彼の生命を脅かすような傷ではないことは、エンの目にも明らかだった。

エンは力を放った脱力感に膝をつく。それでも目の前まで迫った鈴を睨むことは止めなかった。
「俺に傷を負わせたこと褒めてやる。おまえも一思いには殺さない。あの女と同じように生きながら食らってやろう。最期まで俺を楽しませろ」
エンの抵抗を嘲笑う男の指がゆっくりと近づいてくる。それを妙に静かな気持ちで見つめながら、エンはいつまでも経っても現れない銀のことを考えていた。

契約に織り込まない限り、契約者が契約主を守る義務はない。そして、エンは銀に対し、その条項を織り込んだ契約をしていない。する必要を感じなくてしなかった。

「……嘘つき」
それは声となるには、あまりにも小さな呟きだった。
「銀の嘘つき――」
空気を震わせ、音にならない呟きをエンは繰り返す。

浮かぶのは銀色の髪と青い瞳、人外の美貌を持った人物のこと。
復讐相手を前にして、その相手に返り討ちにあおうとしているのに、復讐を果たせない悔しさよりも悲しさが先立つ。恋しさが胸を焼く。

どうせ死ぬのなら―― 銀の手にかかって死にたい。





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2010/01/03
修正 2012/01/14



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