地の先導者 <9>



シリスの口から零れるのは、深々としたため息のみ。
今日だけで何度目になるかもわからないそれに、ついにリマが声をかけた。
「いい加減にしてください。そんな辛気臭い空気を撒き散らしながら仕事をされたら、こちらの気が散るじゃないですか。原因はなんですか、原因は」
心底うっとうしそうな表情をしたリマの顔を見て、シリスは再度ため息をつく。
「ここ最近は脱走もせずに真面目に仕事をしているのは知ってます。ですが、それほどはかどってない事も事実です。そんな状態でいつまでもいられては困ります。私の仕事が増えるだけですからね。話を聞きますから、早く解決してください」
なんとも自分本位な発言に、それでもそれがリマらしくもあるので、シリスはなんとかため息を飲み込み口を開いた。
「……脱走できるものなら、俺は脱走しているぞ」
それでもその口から出た言葉は拗ねた子供そのものだったが――。

それにリマが表情を引きつらせたのは、当然の成り行きというもの。
「私を怒らせたいのですか? 真面目に話しなさい」
自然と目付きも口調もきつくなる。
「別にそういうわけじゃない。真面目な話、脱走できるならしている。それは確かなんだがな。……できないんだ。力が安定しない。こんな事はまだ力を持て余して使う事も抑える事もできなかった子供の時以来だ」
物憂げなシリスの様子に、それが冗談ではないと悟ったリマが表情を引き締め、
「それは本当ですか?」
真剣な瞳で問いかけた。
幼少時代を例えに出すほどの状態だとするなら、シリスよりもその周りが危ない。
シリスはリマを見て頷き、
「ああ。ここずっとそうだ。使おうとしてもまったく作用しなかったり、反対に必要以上に作用しすぎて必要外の事を作り出したり。ほとんど力を使わない子供騙しの様な事ならできるが、それじゃあ使い道もしれているだろ? というか、ほぼ使い道なし 」
おどけた様に肩を竦めたシリスを、リマが睨む。
「この状態が非常にまずい事はわかっているさ。今の俺の周りはあまりに危険すぎる。まあ、救いなのは力を使わない限りは周りに影響も出ない事だな。抑えはいちおう効いているらしい。だから、今の俺は力が使えない状況という訳だ」

そう締めくくったシリスの表情は軽い口調とは裏腹に、深刻なものだった。
それがこの状態に陥ってからだいぶ時が経っている事を物語っていて、リマは深くため息をつく。
「――なんでもっと早く言わないんですか」
そう言う声は責めるものではなく、力無く項垂れているようだった。
「とりあえず原因に思い当たる事もないから様子見していただけだ。力を使いさえしなければ害はないみたいだから、普通の生活をする分には支障ない。放っておけばもしかしたら元の状態に戻るかもしれないしな」
シリスはリマの様子に苦笑する。
使えれば確かに便利ではあった。
けれど、だからといってシリスはそれに頼りきった生活をしているわけでもない。
基本的に無くても、その大部分を補える方法を知っていた。
そもそも大多数の人間は力など持っていない。
ただ単に自分もその人達と同じ状況になったというだけなのだ。
一時的なものか、それとも永代にわたるものかはわからないが――。

その楽天的な言葉にリマは再度ため息をついたが、それについてはこれ以上言葉にする事はできなかった。
まったく使えない立場にあるリマはシリスの立場に立って理解できない。
想像はできたとしても、だ。
力というものの在り方も扱い方も知識としては知っていたが、机上と実際に使うのとでは雲泥の差がある事も知っていた。
そして、力を持つ者の中でも特にシリスは別格だという事も。
だからこそ彼自身がそう判断したのなら、リマにはそれを覆す事などできない。
自分は所詮、門外漢なのだ。
ただ――。
「母さんにも言っておいた方が良いですよ」
ナイーシャなら何が原因が掴めるかも知れない。
シリスの側に立てる彼女なら違う見方もできるはずだと、リマはシリスに釘を刺した。
彼が独りで背負い込まないようにと。
「ああ、そうだな。もう少し様子を見て、変化がないようならそうするか」
リマの気遣いに気づいたらしく、シリスの苦笑が深まった。

その様子にとりあえず大丈夫だろうと判断して、リマは矛先を別に向ける。
先程の発言からして、シリスはその事をさほど気にしていない。
ため息の原因ではないとは言えないが、それが占める割合はあまり大きくないはずだ。
「まだ他にも原因はあるでしょう。とりあえず一つはフィシアの王女の件だとしても、あれはもう決まってしまった事ですからね。あなたが決定した事を今更ぐずぐず悩むわけもありませんし――やはり一番の原因はスーリャ、ですか。喧嘩でもしましたか?」
それ以外の原因など思い当たらない。
リマの問いは断定だった。
けれど、返ってきた答えはというと――。
「してない。というか、ここ最近スーリャとまったく話してない。そんな状態で喧嘩も何もないだろう?」

言葉と共に吐き出されたため息を黙殺し、リマは首を捻った。
そして、不審げにシリスを見つめる。
「変ですね。私の記憶が正しければ、忙しいというのにあなたは一日も欠かす事なく夜はあちらの屋形に雲隠れしていたような気がしたのですが……」
だから、リマはシリスの力の不調にもまったく気づいていなかった。
だが、よくよく考えてみれば夜の闇を見方につければ別に力などに頼らなくとも、見張りの隙をつく事が出来る実力をシリスは持っている。
そういう風に鍛えたのは自分だ。
シリスならやろうと思えばできなくはない。
「蒼夜の顔は見ているさ。だが、俺が訪れる時間が遅いせいかもう眠っていてな。ぐっすり眠り込んでいるのか、一度も起きた事がない。まあ、起こすのもかわいそうだから、なるべく物音を立てないようにしているのは確かだが……。朝は朝でまだ闇が残っている間にこっちに戻ってくる必要があるだろう? 王が城を抜け出しているなんて知られるわけにもいかないしな。そんな時分、蒼夜はまだ夢の中だ」
会話などできるはずもない。

シリスの言いたい事を理解したリマは頭が痛いとでも言いたげに米神を揉み解し、
「……今のあなたには誰にも見られずに昼間脱走するなんて不可能ですよ」
駄目押しするように言った。
「わかっているさ」
シリスは不貞腐れたように言葉を返し、そっぽを向く。
「もう少し状況が落ち着けば警備体制も普段通りに戻ります。そうなれば可能でしょうから、それまでは我慢してください」
それがリマにできた最大の譲歩だった。
王の脱走を容認する事など宰相という立場からすれば本来なら見過ごせるものではない。
警備体制は絶対というわけではなく、普段通りのものであるならシリスが抜け出せるぐらいの穴がある事など、もともとリマは知っていた。
ただ、それはシリスがこの宮殿内の構造を熟知しているからこそできる芸当であり、不審者を気軽に入られるほど普段の警備が甘いかといえばそうでもない。
だからこそ、リマはそれを容認していただけなのだ。

あまり締めすぎては息が詰まるというもの。
そこそこの息抜きは誰にも必要だった。
身内に甘いのかもしれないが、そこそこの限度さえ違えなければ、リマもそう口うるさく言う必要もないのだ。
だが、それはそれ。
やることは消化してもらわなければならない。
「まずはその机仕事をさっさと片付けてください。午後にはフィシアの王女との謁見が入ってますからね。忘れないでくださいよ」
「……わかっている」
シリスは眉間に皺を寄せ、心底嫌そうに返事をしたのだった。



午後、謁見の間にて。
シリスはフィシアから短期留学という名目で訪れた王女と初めて対面した。
「お初にお目にかかります。フィシアの第一王女サヴィスと申します。この度は突然の留学のお話、お受けいただきありがとうございました」
礼儀正しく淑女の礼をしたサヴィスの言葉は、シリスには予想外のものだった。

フィシアの第一王女。
目の前に凛として立っているのは、彼の国の王位継承者だというのだ。
時期が時期だけに留学とは名ばかりの見合いかと考えていたのだが、違っていたのだろうか?
そんな事を頭で考えつつ、それを表面にはおくびにも出さないようにしながらシリスは口を開く。
「いや。よくぞ参られた。経済、流通について学びたいという話だったので、短期留学生として大学院に所属してもらう。それでよろしいか?」
シリスの問いかけに、サヴィスは笑顔を見せた。
「はい。特別な待遇は一切必要ありません。わたくしはフィシアから訪れた単なる一留学生として、学院に所属したく存じます。ですから、身分の事は公にしないでいただきたいのです。よろしいでしょうか?」
「それはいいが、なぜか聞いても?」
予想とはかけ離れた展開に、シリスは内心困惑気味だった。
サヴィスの表情を見ていると、本当に勉学のためにこの国に来たんだと思える。
ただ、相手も一国の王女。
しかも、王位継承者ともなれば素直にそれを信じていいかはわからない。

サヴィスは少し逡巡してから、シリスの瞳をまっすぐに見据えて口を開いた。
「――身分は人を遠ざけます。良くも悪くも。勉学に身分は必要ありません。むしろ余分な遠慮や気遣いを生みますから、邪魔なだけですわ」
可憐な容姿とは不釣合いな、断固とした意思。
そこには王女という身分に対する驕りはまったく感じられなかった。
「もう一つ聞いてもよろしいか?」
応と答えたサヴィスに、シリスは問う。
「サヴィス王女、あなたはなぜ留学先に我が国を選んだのか。よければ教えていただきたい」
「貴国が近隣諸国の間で一番交易が盛んだからです。恥ずかしながら農業主体の我が国は貴国ほど交易に優れていません。そして、その技術も未熟。わたくしはフィシアを今よりもより良くしていきたいと思っています。そのためにもわたくしが学ぶべき事はたくさんあります。けれど、国にいてはわからない事もありますから。ですからわたくしは貴国に留学を申し込みました」
己の国を未熟と言いながらも、彼女はその国を誇りに思い、より良くしようと努力している。
これは芝居などではなく、彼女の本心だと感じ取り、そのまっすぐな気性をシリスは好ましく思った。

シリスの反応を待っているサヴィスに、彼は笑顔を返す。
「あなたは国思いの姫のようだ。学院は明日からにして、今日はゆっくりと休むがよろしい。部屋に案内させよう」
その言葉にサヴィスは再度、優雅に淑女の礼をして微笑んだ。
「ありがとうございます」
そうして背を向け去っていくサヴィスを玉座から見送り、シリスはその背が完全に視界から消えた後、深いため息をついたのだった。
その心中は、見えていたはずのフィシアの思惑がわからなくなった事もあり、思案に暮れていた。





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2008/09/02



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