地の先導者 <3>



目が覚めた時、隣にあった温もりは消えていた。
その事にスーリャは少しだけ複雑な気分に陥る。
いて欲しかったような、いなくてホッとしたような……。
重い身体をなんとか起こし、とうに日が昇り明るくなった窓の外を見て深く息を吐き出した。
この状態ではとても今日はベッドを出られそうにない。
けれど、これ以上ベッドに拘束されるのはたまらなく嫌で――。
「我、大地と共に歩む者。汝の恵みを受けし者。分け与えられしその恩恵を、しばし身の休息へと変えたまえ」
普段使う呪とは異なる回復を促す呪を唱え、その力がゆっくりと身体に馴染んで消えていくのを待つ。
「治癒系の呪が使えてよかった」
ホッと息をつき、呪のお陰で軽くなった身体を解す。
ベッドを出て、スーリャは着替えに取りかかった。

力の使える人間の中でも治癒系の呪が使える人間はほんのわずか。
それは特別で扱うための言葉すら違う代物。
唱える呪は大地の神への祈りだった。
それはシリスも扱えないものだったが、なぜかスーリャは扱う事ができた。
とはいっても、それの専門家であるナイーシャほどではないのだが。
それでも実用的なそれらはかなり役立つ。
ナイーシャ曰く、身体のためを思うなら自然回復が一番良いらしく、スーリャもそうだとは思う。
本来ならこんな用途で使うべきものではない。
それはわかっているのだけれど――。
疲労の理由を思い出してスーリャはほんのりと顔を赤らめ、それを打ち消すように顔をしかめて息を吐き出した。

と、その時。
コンコンと扉を叩く音がして、
「スーリャさま。起きていらっしゃいますか? 入ってもよろしいでしょうか?」
遠慮がちに問うラシャの声が聞こえた。
「どうぞ。できれば着替えを手伝って欲しいんだ」
あらかた着替え終わったものの、スーリャはいまだに外衣の帯を結ぶ所だけは不得手で、自分では上手く結ぶ事ができない。
なので毎回、誰かに手伝ってもらうはめになるのだった。
なんでこんなに複雑なんだ。
帯を一人で結ぼうと挑戦して断念するたびに、スーリャは心の中でぼやく。

「失礼します」という応えと共に入ってきたラシャは、スーリャの帯を慣れた様子で留め、彼の髪に目を止める。
「髪はいかがなさいますか?」
そう訊ねつつも、スーリャの手を取り部屋の隅に置かれた鏡台の前まで連れてきて、その前に置かれた椅子に彼を座らせる。
そして、鏡に被せてあった布を取り払ったのだった。
己の顔を映し出した鏡面を目にして、スーリャは首を傾げる。
「別に、このままでもいいと思うけど」
これといって寝癖で変な方向に曲がっているわけでもなく、そこにはいつもの自分の姿が映っていた。
普段はあまり気にしていないのだが、鏡越しに見える自分の顔は女顔だとまざまざと思い知らされる。
長く伸ばされた髪がそれに拍車をかけている。
うっとうしいし、切りたいのだが、シリスがこの髪をいたく気に入っている事を知っているだけに切り辛かった。
なら縛ればいいのだが、そうするとラシャが飾り立てるのだ。
それが嫌なら自分で縛ればいいというものだが、不器用な自分は髪も一人ではくくれない。
結局、そのままが一番ましだった。

「では、櫛だけでも通しますね」
スーリャの返答を予想していたとでも言いたげな笑みを浮かべて、ラシャはどこからか取り出した櫛でスーリャの髪を丁寧に梳いていく。
「それぐらい自分でできる」
自分が小さな子供になったみたいで、さすがにされるがままでは居心地が悪く、スーリャが髪を梳くラシャの手に手を伸ばす。
ラシャはそれをやんわりと止めて、
「私の楽しみを奪われるおつもりですか?」
からかい混じりに問いかけた。
鏡越しに見える顔は笑みに彩られ、彼女が本当に楽しそうにしている事がわかる。
だから、スーリャは言葉に詰まり、伸ばした手の行き場を失って膝の上に戻す事しかできなかった。

そうしてされるがままに髪を整えられた後。
「ご朝食はどうなさいますか?」
そう問われて、スーリャは少し考えてから、
「今、どれくらい?」
時間を訊ねた。
朝食と言う事は、まだ昼は過ぎていないと考えられる。
けれど、そこそこ日は高く上っているのだから、それほど早い時間でもない。
答えによっては昼と一緒でもいいかと思えたのだ。
「十と半分を過ぎたばかりです」
「じゃあ昼と一緒でいいや。お昼ご飯、早めにしてもらえるとうれしいな」
「わかりました。そのように取り計らいますね」
スーリャはラシャの返事を待ち、にっこりと微笑む。
そして、本題を切り出した。

「それで今からちょっと出掛けたいんだけど……」
「いけません」
間髪いれずラシャは返事をし、にっこりとスーリャに微笑み返す。
「今日はゆっくりこの館の中でお休みください」
有無を言わさぬ口調と眼差しに、スーリャは少しだけ怯んだ。
けれど、ここで引き下がる彼ではない。
「身体は大丈夫だよ。だから、ちょっとだけ。すぐそこだから」
「いいえ。ダメです」
同じようなやり取りを何度繰り返したか。
頑として否を示すラシャにスーリャはむくれた。
「本当にちょっとだけだから。いいよね?」
それでも諦めずに食い下がると、ラシャが困った顔で小さく息を吐く。
「シリスさまに今日は外に出すなと言付かっております」
だから、あなたを外出させるわけにはいかないと、その瞳は静かに訴えていた。
ラシャの頑なな態度にそんな事だろうと思っていたけれど――。
スーリャは消化できない思いを吐息に変えて吐き出し、
「――今日だけじゃないだろ」
彼女を困らせるばかりだとわかっていながら、ついその口からはポロリと本音が零れ出してしまったのだった。

キリアの結婚式から帰ってきた後、スーリャは自分がまともに外に出た記憶を持たない。
外はうららかな陽気だというのに、シリスから解放された今日まで室内にこもるなど、さすがに遠慮したい。
それに外に出たい理由は他にもあった。
スーリャは自分が終えた事への確認をまだしていなかったのだ。
『天の審判者』として、あの禍はすべて連れていった、はず……。
確信を持てないのは、あの時もう一度帰ってこれた事が、シリスに会えた事がうれしくて、中心地であった湖の状態を自分の目でしっかりと確認しなかったから。
どこにも禍の気配など感じられないが、しっかりとこの目でスーリャは確認する責任があった。
そうしなければ、あの事はスーリャの中で終わりにならない。
幸い、あの湖はこの館のすぐ近くにあった。
だから、少しだけでもいいから出掛けたかったのだが――。

「外出してよろしいかは夜にシリスさまにお訊ねください。私では判断できません」
ラシャの困った声に、スーリャは憮然としながらもしぶしぶと頷いた。
このまま問答しても仕方ないし、ラシャを困らせたいわけでもない。
ここで頷いて、彼女がいなくなってから勝手に出て行く事も考えなかったわけではないが、あいにくこの館は完全にシリスの結界内にある。
どういう仕組みで保たれているのか。
本人がいなくても消える事のないこれは内外への出入りの制限をしており、シリスが遠方にいようとすべて筒抜けというスーリャにとってはありがたくない仕掛けが施されていた。
なので、結界を壊さない限り、シリスの許可がなければこの館に入る事は元より、出る事もできないのだ。
とはいっても、別に完全に閉じ込められているわけでもない。
確かに強固な結界ではあったが、スーリャに壊す事ができないほどのものでもなく。
けれど、壊せば確実にシリスに伝わり、彼は何もかも放り出しても絶対にここに飛んでくる事が十分予想できた。
だからこそ、スーリャはその選択肢を取る事はできない。
シリスの仕事の邪魔はしない。
それが、初めから彼の中で決めていた事だったから。

スーリャの諦めた気配を感じ、ラシャはホッとして微笑み呟く。
「力尽くでも行くと仰られたら、どうしようかと思いました」
この言葉を耳にして、スーリャはギョッとした様子でラシャを見つめる。
そう思われるほど切羽詰った表情でもしていたのか。
それとも日頃の行いのせいか。
そうだとしたら悲しい……。
表面には出さずに、スーリャは内心落ち込んだ。
ラシャに、というか女性全般に手を上げるような、力に訴えるようなそんな低俗な人間になったつもりはないし、これからもそうなる予定はない。
スーリャの落ち込みを知ってか知らずか、ラシャはスーリャに微笑みながら言葉を続ける。
「スーリャさまが怪我を負っては、シリスさまに怒られてしまいますから」
涼やかな響きの声を聞きつつ、スーリャはその言葉の意味がわからなくて首を傾げた。
どうもラシャの思っている事とスーリャの思っている事が食い違っているような気がする。

「俺が怪我? 逆じゃなく?」
問う言葉にラシャが驚いたように一瞬目を見開き、クスクスと笑い出した。
「ええ。いくら現役をとうに引退したとはいえ、まだまだスーリャさまに怪我を負わされるほど衰えてはおりません。ただ、私はもともと加減があまり上手くない方なので、誤ってスーリャさまに怪我を負わせる事の方が気がかりなのですよ」
「現役?」
より一層訳がわからず、スーリャは困惑を深め、鏡越しに彼女を見た。
そんな様子の彼に、ラシャはにっこりとやさしげな笑みを返し。
「今でこそ女官をしておりますが、元々はナイーシャさまの、守護師の護衛頭を務めておりました。私は武官の出なのですよ」
予想外の言葉に、スーリャは仰天する。
ラシャの外観はどう見てもたおやかなご婦人にしか見えない。
「武官って……ラシャが剣を振り回すの?」
素っ頓狂な声を上げたスーリャに、ラシャは少しだけ困った表情になる。
「どちらかというと剣術よりも棒術の方が得意ですが……」

いや、そうじゃなくて――!
スーリャは声にならない声で叫んでいた。
パクパクと開閉される彼の口に、ラシャは不思議そうに首を傾げる。
「そんなに驚かれるほど、意外な話でしたか?」
心底意外そうな彼女の問いかけに、スーリャはコクコクと何度も頷いた。
その姿にラシャは苦笑する。
「私に武術の心得があるからこそ、スーリャさま付きの女官に選ばれたのですよ。もし何かが起こってもあなたを守れるように。すぐに対処できるように。スーリャさまの立場は複雑でしたから」
その言葉にスーリャは俯き、沈黙した。
審判者の役目を終えたとはいえ、自分の置かれた立場は今も複雑だ。
シリスの手を取った事で、より複雑に変化してしまった。
その事でラシャにかけているだろう負担も増えているはずだ。
そもそも彼女はナイーシャに仕える人間で、いつまでもスーリャの元に留めて置いて良いわけがない。

「私はスーリャさまに仕える事ができて、とても光栄に思っております。だから、そんなお顔をなさらないで下さい」
顔を上げ、ラシャを振り返れば、気遣わしげに見つめてくる彼女の瞳と合った。
だからこそ、余計に悪い事をしているような気がして、
「ナイーシャさんの所に戻りたい時はいつでも戻っていいから。俺は一人でも大丈夫」
本当はそんな自信もないのに、口から言葉が零れていた。
「スーリャさま……」
ラシャは「失礼します」と断わりを入れてからスーリャの両頬に手をやり、唐突にムニュッと摘む。
加減してくれているらしく、痛くはない。
痛くはないのだけれど――。

驚くスーリャを他所に、彼女はめずらしく小さくため息をついた。
「私の言葉が信用できませんか? 私は私の意思でここにいます。スーリャさまのお世話をさせていただいております」
「でも、それはナイーシャさんや、シリスの命令で――」
「ええ、そうですね。確かにスーリャさまのお世話を頼まれたのは事実です。けれど、私にも拒否権はあります。ナイーシャさまもシリスさまも強制はいたしません。選択する権利は与えてくださる方々です。今やスーリャさまのお世話をする事は私の楽しみなのですよ。だからこそ、またスーリャさま付きの女官になれて、とてもうれしく思っております。――私を見くびらないで下さい。わかりましたか?」
やんわりとした丁寧な言葉の中にも、きっぱりとした否を許さない意思が込められていて、スーリャは自分の言葉を反省した。
「……ごめんなさい」
しゅんとした様子で小さく謝った彼に、ラシャは仕方ないとでも言いたげな笑みを浮かべる。
「いいえ。私こそ、出過ぎた真似をいたしました」
謝罪して、スーリャの頬から手を離し、労わるように一撫でする。
「それでは私はこれで下がらせていただきます。御用がおありでしたらお呼び下さい。昼食がご用意できましたら、呼びに参ります」
そうして、ラシャは一礼して部屋から出ていった。
その背を見送り、スーリャは一人で考える時間をくれた彼女に感謝したのだった。





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2007/08/19



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