地の先導者 <25> |
執務室から隠し通路を経て外に出たシリスは、森の中を進み、月沙湖を目指す。ここは平時と変わらず、そこかしこで命の息吹が感じられる。以前の状態に戻った確かな手応えに喜びはあるが、それらを見てシリスの心が平穏になることはない。 スーリャが居ない。 これをもたらした功労者たる彼が、ここから消えてしまった。 それだけですべてが色褪せて見えた。 こうして唐突に失うのは二度目だ。 こんなこと二度とごめんだと思っていたというのに……。 どうか無事でいてくれ。 獣道を進みながら、シリスはひたすらスーリャの無事を祈っていた。 そうしてたどり着いた月沙湖は、いつもと変わらぬ鏡のような湖面で日の光を煌めかせていた。この湖の傍は異常なほど静かで、ひっそりとしている。森に居るはずの動物達の気配すら感じられず、風が木々の葉を揺らす音が微かに聞こえるだけだ。 波紋すらない水平面を保つ湖の畔に立ち、シリスは片袖をまくり、その腕を湖面上に突き出す。反対の手には、いつも懐に忍ばせている短剣を握る。鞘から抜かれた剥き出しの刃が、日の光に反射して鈍く光った。 彼はなんの躊躇いもなく短剣の刃を己の腕に当て、真一文字に引く。傷口から滴った血が湖面へと落ち、唯一の波紋を広げた。 「我、血の制約を受けし、この地を担う王。血に宿りし力を贄に、我、汝に導を求める者なり」 湖に溶けたシリスの血は色を無くし、その部分を起点にするように自然とは相反する渦が水面に生まれる。その異変は水面だけでは収まらず、風が彼を起点として渦巻いた。 「縁結びし愛し子に通ずる道、シリスの名に於いて、汝に――」 周りの様子とは裏腹に、シリスの傍は完全に無風だった。だが、当の本人に周りを気にしている余裕などまったくない。 まだ終わっていない。 あと一文一字だけ残っている。言わなければ完成しない。 シリスは最後の言葉を紡ぐため口を開く。だが、それは音にならず、息として吐き出された。 全身に激痛が走る。 初めは意識して力を使ったというのに、今は意識して力の放出を止めようとして止められずにいる。己の示したもの以外の方向に作用しそうになる力を止めようと、無意識に歯を食いしばった。 止まることの無い力の放出は徐々に増して、それによって増す猛烈な痛みがシリスの意識を奪っていく。特にひどい割れるような頭痛に、片膝をついてなんとか自分の身体を支えた。 朦朧とする意識の中で、痛みと共に大きくなっていく警告音。 いざとなるとやはり己の命も惜しいと思える。 それにまだ、スーリャを取り戻せていない。 諦めたくない思いと、無理だったのかという思いが交差する。 もしこのまま意識を手放してしまえば――。 いずれは完全に制御を無くし、力は完全に暴走する。 そうなれば、この身が滅びるは確実。ただし、シリスの場合は自身だけでは済まないのだ。強大な力は周りを巻き込む。 だから、彼がもしもの時に取るべき手段は一つだけだった。 彼一人だけで済ます方法。その命を絶つ、ということ。 遅かれ早かれこの身は滅びる。ならば、それは自分だけで良い。 ナイーシャは直に気づくだろう。だが、彼女の手を煩わせるわけにはいかない。 彼女の取れる手段も、今の自分と同じだ。母のように自分を育て上げてくれたナイーシャに、自分の命を背負わせるわけにはいかない。 自分のケリは自分でつけるべきなのだ。 ああ。 シリスは心の中で呻く。 このまま会えないで終えるのか、と。 己の情けなさに、自然と自嘲が浮かぶ。 手に握りしめたままだった短刀を、緩慢な動作で己の首へと移動させる。当たった刃の冷たさが、どこか現実離れしていた。 これを引けば――。 そう思った時だ。 『このド阿呆が。こんな力の使い方があるか、呆け。とりあえず場の収集をつけてやるから、奥に引っ込んでろ』 大音声の怒り声がどこからともなく響き渡った。 シリスは自分の意識が勢いよく何かに引っ張られるのを感じる。身体の感覚もなく、引こうとした短剣がどうなったかさえ、もうわからない。 黒く塗りつぶされていく意識の片隅で、警告音だけが最後まで響いていた。 |
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