地の先導者 <20> |
スーリャがそうこう考えているうちに、馴染んだ場所へとたどり着いた。 ここで暮らしていた頃が、随分と昔のように感じられる。 あの頃と今とでは、なんて自分は変わってしまったのだろう。 何もかもが記憶にある空間と同じに感じられて、いっそうその思いはスーリャの中で強くなった。 「いらっしゃい、スーリャ。その姿はラシャの発案によるものかしら。女官姿も可愛いわね」 ナイーシャは座っていた長椅子から立ち上がり、笑顔で彼を出迎える。 「こんにちは、ナイーシャさん。馬子にも衣装だよ。ラシャの腕が立つの確かだけど」 おどけながらも優雅にお辞儀してみせたスーリャに、ナイーシャが苦笑する。 「何を言うの。元の素材が良いから、ラシャも腕の見せ所があるというものよ」 同意を求められたラシャは頷き、笑みを深くする。 分が悪くなったスーリャは困り顔で突っ立ったままだ。 「そちらの椅子に座って頂戴」 ナイーシャに勧められるまま、スーリャは示された長椅子に腰掛ける。室内に居たのは彼女だけで、すでに人払いがされていた。 「ラシャも御苦労さま。それでね、一息つく間もなくて悪いんだけど、少しお使いを頼まれてくれないかしら? ザクトさまにこれを届けて欲しいの。リマの所にいるから」 差し出されたのは、透明な液体の入った小瓶と手紙の入った籠。 スーリャと二人きりで話したいという、それは遠回しなナイーシャの要望だった。 その事に気づかないラシャではない。彼女は快く笑顔で引き受ける。 籠を持ってラシャが部屋を出る姿を見届けた後、スーリャの正面の長椅子に腰掛けたナイーシャはその顔から笑みを消し、真顔で彼を見た。 「スーリャ、あなたにシリスの子を産む覚悟はある?」 唐突なナイーシャの問いに、一瞬、スーリャの思考は停止した。ゆっくりと彼女の言葉を理解するにつれ、彼の瞳が見開かれ、その表情が驚愕に染まっていく。 「ナイーシャさん、何言って……。俺、男……」 掠れた、力無い声がスーリャの口から零れる。 「今はまだ、ね」 引きつった笑いで誤魔化そうとしたスーリャに、ナイーシャは有無を言わさぬ口調で言った。 「あなたの身体は変わり始めている。気付いているでしょう、スーリャ」 ビクリとあからさまに震えたスーリャの肩に、ナイーシャは困ったような顔になった。そして、子供に言い聞かせるようにゆっくりと残りの言葉を告げる。 「夜になるとすぐに眠くなるのはそのせいよ。性変化はルー・ディナの影響を受ける。月の女神の力は夜にこそ、その真価を発揮する」 心当たりは山ほどある。 ただナイーシャに指摘されるまで目をそらしていただけ。 そんなはずはないと否定し、それを容認することで自分自身を誤魔化していた。 変化すること。女性に変わること。 その事実を認めることで、自分が自分では無くなる気がして――それが、ひどく怖かった。 俯いたスーリャは、無意識に自分自身を抱き締める。 小刻みにその肩が震えていた。 予想以上にスーリャが取り乱していることに、ナイーシャは気付かれないよう小さく息を吐き出す。 そして、これ以上この話を続けることは無理だと判断した。 今、ここで張り詰めた糸を切らすわけにはいかない。これ以上追い詰めれば、スーリャは壊れてしまうかもしれない。 今の彼は、硝子細工のようにとても脆い。 ただでさえ不安定な時期だ。 しかも、それを支えられるはずの家族が、彼の傍には居ない。 スーリャは強い。 だが、いくら強くても人間は独りでは生きられない。どんな人間だろうと弱さを併せ持つ。 その弱さを恥じる必要はない。他人を頼っていいのだ。 けれども、それをスーリャが悟るには若く未熟で、それをシリスが完全に受け止めるには経験が足りなかった。 他の人間で代用が出来るならそうするが、これはシリスでなければならない。カイナでスーリャが身も心も曝け出せる唯一の存在は彼だけなのだ。 状況が許すならば、シリスはスーリャの事に専念出来ただろうに……巡り合わせとは皮肉なもので、現在、彼は彼で別の深刻な問題を抱えている。 それに関して本人は楽観視しているが、ナイーシャは危惧の念を抱いていた。 「ごめんなさい、スーリャ。答えを急ぎ過ぎたわ。あの言葉はね、私の希望。あの子の子供をあなたに産んで欲しいっていう私の我が侭よ」 固く目を閉ざしていたスーリャは、ナイーシャの表情に気づかない。 「私はシリスにもスーリャにも幸せになって欲しいの。なんの陰りも憂いもなく――」 そう言った彼女の表情は少しだけ悲しげで、淋しげなものだった。だが、すぐにその表情も消え去り、真顔に戻る。 「そのことは今すぐに結論を出さなくて良いのよ。いずれ答えを出されなければならない時は来るけど、それは今では無いから……。こちらは別件。スーリャ、あなたに頼みたいことがあるの」 シリスのことよ。 付け足された言葉に、縮こまっていたスーリャが反射的に顔を上げた。己を抱き締めていた腕は、膝の上へと移動する。 「たぶんシリスはあなたに黙っているつもりでしょうけど、私はあなたに知っておいて欲しいの」 訝しげな顔をしたスーリャに、ナイーシャは少し困ったような顔で微笑む。 「履き違えないでね。このことをシリスがあなたに言わないのは、あなたに心配をかけたくないからよ。でも、私は出来るだけのことはしておきたいの」 スーリャは膝の上でギュッと手を握り締め、凪いだ水面のように静かな瞳でナイーシャに先を問う。先程の動揺していた姿が嘘のように、その様は気迫に満ちていた。 「今、シリスの力はとても不安定になっている。今はまだ良いわ。力を使わない限り暴走はしないというのが、私達の見解。ただ、この現状がどこまで続くかわからないのよ。もし、もしもこの均衡が崩れて暴走したら、それを止めることは当事者であるあの子にはきっと出来ない。かといって、私に出来るかといえばそれも無理なの。情けない話、私にはあの子の力を抑えられるほど力が無い。私が考えうる限り可能性があるのは、あなただけよ」 「もしも力が暴走したらシリスは――?」 スーリャの固い声がナイーシャに問い掛けた。 「その命は無いかもしれないわ」 頭を鈍器で殴られたような衝撃がスーリャを襲った。だが、それに追い打ちをかけるように彼女の言葉は続く。 「いいえ、違うわね。その時、シリスの命は無い。完全に暴走する前に、手遅れになる前に私が引導を渡す。それが『守護師』としての私が背負うべきモノ、ね」 中心の地を、ひいてはカイナを守るために守護師は在る。 淋しげな、諦めにも似た表情を浮かべたナイーシャが視線を伏せた。 こんな負担になること、今の彼に言いたくない。けれど、シリスの義母として言わずにはいられない。 「お願いよ、スーリャ。そんな最悪の事態になる前に―― シリスを助けて」 ナイーシャは懇願する。 そんな彼女にスーリャは呆然としたまま身動き出来ないでいた。 ナイーシャに言付かった用事を済ませて帰ってきたラシャと共に奥宮を後にしたスーリャは、先程受けた衝撃を消化できないまま呆然と歩いていた。 頭の中は纏まらず、瞳に映る景色は彼の中で素通りしていく。 庭に咲き乱れるきれいな花も、すれ違う人々が向ける視線も、彼の意識には引っ掛からなかった。 だが、一般開放区にある庭の回廊の途中でスーリャはふと足を止めた。 この回廊を右に、今、彼が見ている方角へと進めば国立図書館と呼ばれる膨大な書物を所蔵する建物がある。 先を歩いていたラシャが数歩進んだ所で彼の様子に気づき、戻ってきた。 「スーリャさま?」 彼にだけ聞こえるよう小さな声で問う。 「……ごめん。なんでもない」 スーリャは小さな声でそう言い、微かに首を振って俯いた。 ラシャはその妙な態度に首を傾げる。何かあるのかと先程まで彼が見ていた方角に目を向けたが、普段と何か違うようには感じられなかった。 この場所は王宮関係の人間だけでなく、一般人も多い。 この先にある図書館を訪れる者が多く、その前の広場には至る所に椅子とテーブルが設置されて、軽食の販売すら行われているのだ。 昼時よりも少し早い今の時間でも、図書館に向かう者や椅子に座って軽食を片手に寛ぐ者、立ち話をする者など、様々な人々が見受けられる。 「……行きましょうか」 なんとなく腑に落ちなかったが、いつまでもここに居て不必要に人目に付くことは避けるべきである。 ラシャはスーリャに声を掛け、歩き出した。その後を彼も無言で付いて行く。 前を歩くラシャは気づかなかった。 スーリャの顔が一瞬、泣きそうに歪んだことに――。 |
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