地の先導者 <11>



そうしてたどり着いた先にあったのは、何かと縁深い月沙湖だった。
ただ、鈴の音はこの場から聞こえるのではない。
これよりももっと奥から聞こえてくるような気がして、スーリャは立ち止まった。
辺りを見回し、不自然に空間が揺らいでいる所を見つける。
どうやら音はその先から聞こえているようだ。

「スーリャさま」
揺らぎを目指して歩き始めたスーリャをラシャが呼び止めた。
彼は振り返り、不思議そうに彼女を見つめる。
「私がお供できるのはここまででございます。いってらっしゃいませ」
深々と頭を下げたラシャを無言で見つめ、スーリャは思い巡らした。
たぶんラシャはこの先に何があるか知っている。
そして、彼女のこの様子からも察するに、この先に危険はない。
今のスーリャにわかる事はそれだけだった。
いったいこの先に何があるのか。
揺らぎを見つけてから、スーリャを呼ぶ音は一層強く響いている。
まるで早く来いと叫んでいるように――。
「……行ってくるよ」
スーリャは軽く挨拶して、揺らぎに足を踏み入れた。

彼の身体が完全に揺らぎに飲み込まれた後、すぐにそれは消えてしまった。
当然、スーリャの姿も見えない。
それでもラシャはしばらくその場に留まり、彼の姿が消えた場所を浮かない顔で見つめていたのだった。



白に埋め尽くされた視界。
無音の世界。
それはルー・ディナがいたあの白い空間に似ていた。
けれど、すぐにその白は消え去る。
次に目の前に広がったのは、どこまでも続く草原。
見渡す限り草原と青い空しかない空間だった。

ふとそこに人影を見つけてスーリャが目を凝らす。
彼の存在に気づいたのか、人影がこちらを振り返った。
その表情がスーリャの姿を認めたとたん、驚きに染まっていく。
スーリャもまた、よく見知った人の姿に驚いた。
そして、すぐに警戒を解き、その傍まで駆け寄る。
「ナイーシャさん。なんでここに?」
問い掛けたスーリャに、ナイーシャは困ったような顔をした。
「今回呼ばれたのはあなただったのね、スーリャ」
スーリャの問いには答えずに、ポツリと呟いたかと思うと、
「中心の地へようこそ。守護師として、私はあなたを歓迎します」
ナイーシャは優雅に礼をしたのだった。

戸惑ったのはスーリャだ。
なぜナイーシャがそんな態度を取るの理解できない。
「ナイーシャさん……」
後に続く言葉が思いつかず、スーリャは困惑も露わな顔で立ち尽くした。
ナイーシャはどことなく陰りのある微笑を浮かべ、静かに問い掛ける。
「スーリャ、守護師という言葉の意味を知っているかしら?」
スーリャは首を横に振った。
風が草原を揺らし、草のすれる音が二人を包み込む。
うるさいほどに聞こえていた音はいつの間にか止んでいた。

「中心の地を守る者。それが守護師よ。そして、この地はその名の通り、カイナの中心地。けれど、他の大地とは隔てられた場所。ここは呼ばれた者だけが入れる特別な大地なの」
スーリャは言葉の意味を掴みあぐねて首を傾げる。
「この地の入口は無数にあるわ。それこそ世界中に。私もすべてを知っているわけではないけど、条件付きであれ、そこを通る事ができるのは限られた者のみ。その者達は誰もが同じ役目を負う事になるわ。無論、私もね。そして、私はこの地に呼ばれた者にその事を伝える役目も負っているの」
そう言ったナイーシャの顔に浮かんだのは、少し悲しげに見える微笑。
視線をスーリャから草原に移し、彼女は呟く。
「私があなたに治癒の呪を教えたのが間違いだったのかしらね。本来、あれは限られた血を受け継ぐ者にしか使えないはずなの。もしかしたらとは思っていたけど、本当にあなたは使えてしまった。それでも他の世界から来たあたながこの役目まで負うとは思っていなかったのよ」
どことなく後悔しているような言葉に、スーリャが眉をひそめる。
「けど、もう遅いわね。それにもし教えなかったとしても、現にあなたがここにいる以上、この地に呼ばれなかったという保証はどこにもないものね」
迷いを割り切ったらしいナイーシャがスーリャに視線を戻し、まっすぐに見つめてくる。
それを正面から受け止め、スーリャは彼女の次の言葉を静かに待った。

「あなたは私達一族とは違う。だから、どこまで当てはまるかはわからないわ」
けれど、知っておいた方が良い。
ナイーシャは言葉を区切り、スーリャの両手を包み込むように握る。
「この地に呼ばれた者は一つ所に留まる事が出来ない可能性が高いの。必ずではないけど、ほとんどの者が放浪する宿命を負うわ。その役目のために――」
少しひんやりとした彼女の手と言葉がスーリャの心に波紋をもたらす。
「……その役目って、何?」
重い口から絞り出すように声を出し、スーリャは問い掛けた。
「必要なのは癒し。それは人に限らない。カイナもまた傷つき、癒しを求めているわ。声にならない声で、世界が悲鳴を上げるの。それを癒すのが私達。その為に与えられたのが癒しの呪の本来の役目よ。人に対して使えるのは、そのおまけみたいなものなの」
淡々と紡がれる言葉の端々に悲しみが混じっている。
「各地で響く叫びを止めるために、私達は世界を巡る。だから、ほとんどの場合、一つ所に留まる事はできないのよ」

冷えていく心の内で、スーリャは思った。
「ナイーシャさんは?」
疑問は簡単に口から零れた。
彼女はこの地に留まっている。
それでは話が合わない。
そう訴えるスーリャの瞳に、彼女は顔をわずかに歪めて首を振った。
「確かに私も癒す者よ。でも、私は守護師。この中心の地こそが私の癒すべき地であり、もっとも悲しき地。ここは無数の入り口によりカイナ中に繋がっているために、常に世界が悲鳴を上げ続ける大地」
ナイーシャの言葉を示すように、辺りの様子が一変した。
深い深い水底にいるような暗い場所に、スーリャはいきなり放り出された。
目の前にいたはずのナイーシャの姿はなく、この場にスーリャは独りだった。
上も下もわからなくなりそうな深い闇。
どこまでものみ込まれてしまいそうな、そんな闇を照らすのは、寒々しい青白い無数の小さな輝きのみ。
けれど、それは今にも闇にのみ込まれてしまいそうなほど儚く見える。
事実、その通りのものだった。
一つまた一つと輝きは闇にのみ込まれ、再び輝く事はなかったのだ。

スーリャの胸に募るのは悲しみだろうか。
それとも絶望だろうか。
この場には希望などどこにも感じられない。
自分の置かれた状況も忘れ、彼は頬を濡らし静かに泣いていた。
頬を伝い落ちた雫が暗い足元に小さな波紋を広げ、気づけばそこは先程までいた草原で、目の前にはナイーシャがいた。
彼女に握られた手もそのままだ。
「あれこそがこの地の真実。けれど、私達以外それを知る者はいないわ。癒しの力を持たない者にあの姿は見えないの。でも、私はそれでいいと思うのよ。すべての人があんな光景を知ってしまったら、未来に希望なんて持てないわ」
ナイーシャがスーリャの頬の涙を拭い、包み込む。
冷たいと思っていた手が本当は温かかったのだと彼は気づいた。
「あの姿は私達に絶望しか与えないのかもしれない。でもね、よく見て。スーリャ。まったく希望がないわけではないの。希望がなければ癒しなど意味がない。けれど、そうではないのよ」

再度、目の前に広がったのは、やはり深い深い水底のような光景。
闇が何もかも奪い去っていく姿。
けれど、いつまで経っても完全な闇にはならない。
消えた輝きが再び輝くことは無くても、違う場所で別の輝きが生まれていた。
けして、絶望だけではないのだ。
「世界は、カイナは生きているのよ。だから、癒しを必要とする」
母が幼子を安心させるかのように、ナイーシャがそっとスーリャを抱きしめた。
二人の周りを草原を駆け抜ける風が吹き抜けていく。
草の擦れる音がまるで波の音のようで。
スーリャはナイーシャにしがみつき、込み上げる感情のまま、しばらく声を殺して泣いていた。





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2008/11/19



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