天の審判者 <1>



何か異質なモノが来る。
強烈な、まるで耳元で叫ばれているような、そんなはた迷惑な感覚にシリスは手を止めた。
このままでは仕事にならない。
書類の乗った机上から顔を上げ、気の向くままに窓の外を見た。
そして、唖然とした。

空から何かが降ってくる。
何か。
遠めでも認識は出来た。けれど、心境的に理解したくなかった。信じられないことに、その何かは人間に見えたから。

近くには飛び降りできそうな崖はない。
人間を乗せて空を飛ぶような代物もない。
普通なら人間がそんな場所にいることはないはずなのだが――。

では、あれは何か?

そう訊かれても、今の自分に答えなんて出ない。
けれど、人間らしきモノは確実に地上へと落ちてきている。
それだけは確かだった。

こうはしていられない。
確かめなければ――。

元来持ち合わせている好奇心を刺激され、シリスは即行動に移った。急にいなくなった主に激怒するだろう某一名に一筆書き、外套を羽織って身軽に窓から外へ飛び出す。

あのまま行けば湖の辺りに落ちるよな。

そう目測を立て、人目を避けながら目的地へと早足に向かった。



この先には月沙湖と呼ばれる湖がある。ほとんどというか、まったくと言っていいほど訪れる人のいない湖。禍々しい噂の絶えない湖は、今日も静かに水面を風に波立たせている。
その真ん中で、お目当ての人物は宙に浮かんでいた。

そう。水面すれすれの、けれど水についていない空中で完全に浮いていた。
とても人間業とは思えない。

シリスは湖の縁に立ち、その人物を見つめていた。
こうして近くで観察しても、やはり姿形は人間だった。しかも、見慣れない身形をしている。この位置からでは男女の区別はいまいちつかないが、成人前の子供のようだった。
けれど、異質な感じがどうしてもつきまとう。この異常な状態を抜きにしても、だ。
この人物自体がここにそぐわない者だと、異質なモノだと、シリスは感覚で理解していた。

いまだその人物は身動きひとつしない。
目は堅く瞑られ、口は閉じられ、その様は眠っているようにも見える。
どうしたものかとシリスが頭を悩ませていると、唐突に奇妙な均衡は崩された。

パシャン。

アッと思う間もなく、今まで自然の法則に逆らっていた人物が水に沈む。
そして、そのまま上がってくる気配がまったく無かった。

ゲッ!
溺れてる……とか?

あまり大きくない湖ではあるが、中心部の水深がかなり深いことをシリスは知っている。慌てて泳ぐために邪魔な衣を脱ぎ捨て、身軽になってシリスは湖に飛び込んだ。
この時、このまま見捨てるという選択肢は、彼にはまったくなかった。
得体の知れない者だというのに、何かに衝き動かされるように助けなければという思いしか彼の中にはなかった。



冷たい!

気づいた時にはなぜか水中に居た。
苦しくて、この状況から抜け出そうともがく。
けれど、それに反して身体はどんどん底へと沈んでいった。

息が出来ない……。

身体に絡みつく水が重く、四肢は力を無くし、段々ともがくことすら困難になってくる。
手も足も重い。動かない。

ああ。このまま沈むのかな……。

霞む頭で他人事のように考えていると、何かが見えた。
一対の黄金色をした何か。
刺々しさのないやさしい色をしたそれに、自分の置かれた状況も忘れて見惚れる。
無意識に重い手を伸ばした。

きれいだ。

それが水の中で思った最後の言葉だった。



どこをどう見てもやっぱり人間に見える。

溺れている所を湖から拾い上げ、水を吐き出させ、とりあえず一安心と自分の腕の中にいる人物を見つめ、シリスは思った。
けれど、先程の光景を考えるとまだ何かあるかもしれない。
自分を含めこの惨状で人目に晒されることは非常に好ましくなかった。
ただでさえ、シリスの普段の生活圏は、良い意味でも悪い意味でも人目があり過ぎる。
ということで、シリスは湖からそこそこ近い場所にある、私的な館。隠れ家とも言えるその場所へと、ひとまず連れて行くことにした。
気を失っている小柄な身体を抱えて、いそいそと進む。

そこは湖の近くにあるので人はあまり近づかない。
もし側に来たとしても特別に目隠しが施されたその館は、その存在を知っている者にしか認識されない。その上で館の主であるシリスが出入りを認めた人しか入館不可という細工も施されていた。
そこは誰かを隠すにはうってつけの場所だった。

さて。運び込んだはいいが、どうしたものか。
シリスは首を捻る。
腕の中の人物はいっこうに目を覚ましそうになかった。
そして、お互いの装いを鑑みて、ため息をひとつ。

まずはこの濡れた衣をなんとかするか。

顔つきは男女どちらにも見えるが、体形から考えてたぶん男だと判断する。
たぶんとつくのは、自分も含め周りの男共と比べるとずいぶん小柄、というか華奢だからだ。
こうして腕に抱いていても、いまいち確信できない。
そのことに思わず苦笑がもれた。
なんとなく良心の呵責を覚えつつ。
それでもこのままにはできないと言い訳みたいに思いながら、シリスは見慣れない衣に手をかけたのだった。





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とりあえずはじまり、はじまりです。異世界トリップものの王道を進んでいる、はず……たぶん。気長にお付き合い頂ければ幸いです。
2006/06/03
修正 2012/01/15



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