逃走



人外の者の生活圏にある北の奥地。一年の半分以上を雪と氷に閉ざされた極寒の大地には、寒さを防ぐために張られた大きな結界があった。
この地には、ずっとずっと昔から妖精族と呼ばれる種族が住みついている。大きな結界は、妖精族の集落をこの地の気候から守るためのものだった。

ここはその結界の内側、その外れ。そして、ここが二人の出会いの地。
彼らの物語は、この地から始まった。



「はぁ〜」
どっかりと地面に座り込み、伯は足元の草をぶちっと千切る。
「面倒くさい」
ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ。
意味もなく草を千切り、不貞腐れた表情で呟く。
「なんで僕だったんだよ、まったく」
ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ。
千切られた草が小山になっていた。

「そろそろ次代が現れてもよくない ?  僕、十分勤めたと思うんだけど……。そこにいるのは誰 ? 」

木々が茂って視界があまり良くないとはいえ、これほど近づかれるまで気づかなかったことに、伯はその気配が感じられた方向を睨みつける。
音もなく低木の陰から現れたのは、子供だった。

「妖精族の子供か……。良い子は寝る時間だよ ? 」
外れとはいえ、妖精族の集落を守る結界内に伯は不法滞在している。子供よりも立場が弱いはずの彼だが、全然気にした様子もなく飄々とした態度は崩れない。
「子供ではありません。それに私は良い子でもないので、出歩いても大丈夫です」
伯の前に立った子供は胸を張り、堂々と言い切った。その態度と言い分に伯は目を丸くし、幾度か瞬いた後、ゲラゲラと笑い出す。

「屁理屈をこねている内は子供だよ。結界内とはいえ、こんな外れでこんな遅い時間に一人でいると、悪い人に攫われちゃうよ ?  たとえば僕みたいな、ね」
「……本当の悪人は、自分のことをそうだとは言いませんよ」

中性的な顔立ちに、にっこりと愛らしい笑みを浮かべて言い返した子供に、伯は呆れた視線を向ける。
「外見は可愛いのに、中身が可愛くない。生意気だよ」
子供の額にデコピンすれば、子供が額を抑えて涙目で伯を睨んだ。
「何するんですか」
恨めしげに見られても、伯は素知らぬ顔をする。

たかがデコピンとはいえ、本気でやれば子供の身体が吹き飛ぶくらいの威力は出せる。それが多少痛い程度で済んでいるのは、伯が重々気を付けて手加減したからだ。
だが、そんなことだとは、初対面である子供が知るはずもない。

「どちらにしろ、早く集落へお帰り。そろそろ時間だし、結界内だろうとここは外れだから必ずしも安全とは言えない。要するに、君は邪魔」

立ち上がった伯は、服についた草や泥を払う仕草をする。その間も子供は立ち去る様子はなく、黙ったまま伯を見ていた。
その場に留まる子供を、彼は不機嫌そうに見て頭をかく。
「僕の言ってること、理解できてる ?  君がここにいるのは、僕の仕事の邪魔。君は知らないみたいだけど、君の住む集落の年寄り共なら知っているはずだよ。帰ったら聞いてみると良い。これから面倒な物がこの近くに現れる。それの処理は僕の仕事だけど、それによって巻き起こされる被害は僕の範疇外。僕に君を守る義務はない。命が惜しいなら、君は集落に帰るんだね」
子供はコテッと可愛らしく首を傾げた後、にっこりと笑った。

「わかりました。あなたは捻くれ者、なんですね」

一瞬絶句した後、伯が子供の頬をつねり上げる。
「……否定はしないよ。だけどね、子供に指摘されると腹が立つのはなんでだろうね。死にたいなら、僕が引導を渡してあげようか。今、すぐ、ここで」
頬から首へと移った伯の手を気にした様子もなく、子供は心外そうな顔で彼を見上げる。
「私は子供ではありません、と先程も申しました。翼という呼び名があるのですから、そう呼んでください」
あまりにも平然とした態度でいる子供改め翼の姿に、伯は呆れた顔で手を離し、ため息をつく。

「ホントに可愛くない。……じゃあ翼、君は死にたいの ? 」
「いいえ」
首を横に振った翼に、伯は再びため息をつく。
「なら、集落に帰ったら ? 」
「いいえ」

先程と同じ答えを口にして首を横に振った翼に、伯は奇妙な者でも見るような眼差しを向ける。

「……僕の言葉、通じてる ? 」
「わかっています。あなたは私の身の心配をしてくださっているのですよね。ですが、私にも目的があります。それにはきっと、あなたの傍にいる必要がある気がします」
「……言葉が通じてないように思えるのは僕だけ ?  別に君の心配なんかしてないよ。ただ気が散るから、ここにいられても邪魔だってだけで。それに、何。その運命を感じました的な発言」

子供の表情は至って真面目で、伯は内心困惑していた。
外見は子供そのものだが、中身がまったく子供らしくない。なんとも妙な存在に出会ったものだと思う。
「……ああ。そういう言い方もありますね。あなたは私の運命の人らしいので傍にいたいです、と言えばよかったのでしょうか ? 」
小首を傾げながら問われて、伯は天を仰ぐ。
どうにも調子が狂って仕方ない。子供の言葉には邪気がなく、どこまでもまっすぐで、困ったことに本気のようだった。

「君、いくつ ? 」

外見年齢と実年齢が違うかもしれないという考えに至った伯は、とりあえず気になった年齢を問うことにした。 確か妖精族は基本的に短命種で、若い内は外見年齢と実年齢に違いはなかったはず……。

「今年で十を数えました」

短命種の妖精族でも、その年齢なら成人前だ。
本人は否定しているが、まだ子供である。けれど――。

「……さば読んでない?」
伯の持っている妖精族の知識と差異はない答えだったが、もっと年齢が上の方が納得できる翼の言動に、彼は疑わしげな視線を向ける。
翼の外見年齢は確かに十歳程度だった。それでも、その言葉が素直に信じられなかったのだ。
「あなたに嘘を教えても意味がないと思いますが ? 」
真顔で言われて、伯は深々とため息をつく。
納得はできなくても、こんなどうしようもない問答を続けている場合でもない。

「こうしている間にも時間は迫っているんだけど……君、本当にこのまま僕の傍にいるつもり ? 」
「私はあなたを確かめるために、この場に導かれたようですから」
「事が起こったら、僕、この結界の外に出る予定なんだけど、それでも ? 」
「可能な限り」
「……この季節に結界を出たら外は猛吹雪だよ。君、自分の身を自分で守れるの ?  外にあるのはそれだけじゃないんだよ ? 」

それは、最後の忠告だった。

正直者は嫌いじゃないが、愚か者は大嫌いだ。
そんな者はあっけなく現し世から消えていく。

「……猛吹雪くらいならば」
翼の顔が初めて悔しそうに歪んだ。
その答えに、伯が暗示した存在を翼が知っていたことを悟る。
「あなたは、無事に勝てますか ? 」
向けられた眼差しに滲むのは、伯の身を心配する思いだ。

そんな思いを他人に向けられたのは、ずいぶんと昔になる。人外の頂点に立つ一族の、その長である伯を心配するような者はいなくなって久しかった。
それを他の種族の、出会ったばかりの赤の他人から向けられている。
そのことに奇妙な心地がした伯だったが、その顔には自然と笑みが浮かんでいた。

「僕が負けると思うの ?  この、僕が」
負けるなんてあるわけがない。過信ではなく、それは歴とした事実。
不敵な笑みを浮かべて翼を見返した伯に、翼は困ったような顔になる。
「私はあなたをよく知りません」

伝わってくる力の気配は強大だ。翼では正確に量ることができないくらいに強い。けれど、だからなんだ。
このまま彼の傍を離れれば二度と会えない気がして、どうしても傍に引き止めたかった。

「せっかく出会えたのに……。今の私にはあなたと共に結界の外へ行って、無事にいられる自信はまったくありません。けれど、今ここであなたと離れてしまったら二度と会えない気がします。それは嫌です」
手を伸ばせばすぐに届く距離。けれど、二人の間には遠い隔たりがある。
「死ぬことよりも、僕と二度と会えない方が嫌だって ?  僕、君と会ったのは今日が初めてだよね。なんで ? 」

伯には翼の考えていることが理解できない。

「どうしてでしょうね。この場に来たのは、婆様の占いの審議を確かめるためでした。私の運命が決まる日だとあの方は仰いましたが、あなたに出会って納得しました。私はあなたと共あるべきなのだと」

困惑顔で語る翼に、本人もそのことに戸惑っていることが見て取れる。
ただ、婆様の占いという言葉が翼の口から出たこともあり、伯は嫌な予感に襲われていた。

妖精族が基本的に短命種と言われるのは、妖精族の中でも長命種のように長生きする者が稀に現れるからだ。その理由が如何なるものか伯も詳しくは知らないが、種族の中で彼らは役割を二つに分けたのではないかという推測はあった。
短命な者は種を残し、長命な者は種を導く。
妖精族のどの集落にも占いをする者が一人は必ず存在し、その者は運命を読むとされている。その占いが外れる、ということは無きに等しい。
だが――。

「僕には関係ないよ」

伯は妖精族ではなく、ウイの一族だ。
彼らが囚われる者は、己の定めた伴侶のみ。
他の何かに縛られることなど、ありはしない。

「僕は誰かに決められた運命なんて知らない。そんなもの必要ない。従わされるなんて真っ平だ。そんなものがあるなら壊してあげるよ」
伯は嫣然と笑う。獰猛な牙を隠すことなく、その紅い鮮血のような色の瞳を翼へと向ける。
「あなたには壊すことなどできません。私はあなたに出会いました」
「そう ?  今、ここで君を殺せば、その運命も簡単に変わると思うけど……」
再び翼の首へと手を伸ばし、伯は掴んだそれに力を入れる。翼の顔が苦しそうに歪んだ。

「僕は何にも束縛されない。今までも、これからも、ずっと」
「……間違えないで、ください。私はあなたを束縛したいのではなく、傍にいたいだけです」
もっと手に力を入れれば、この細い首は簡単に折れる。けれど、伯はそうはせずに、苦しげに掠れた声で反論する翼の言い分に耳を傾けた。
「あなたの行動を妨げるつもりはありません。あなたは自由で良い。ただ、私はそんなあなたの傍に添いたいだけです」

「………」

気が削がれて、伯は翼の首から手を離す。
翼が苦しげに咳き込み、呼吸を整える姿を彼は呆れたように見下ろしていた。
「君、本当に年齢さば読んでない ?  とても十歳児の言葉とは思えないんだけど……」
短命種は、精神年齢の成長が早いのか。
いったいどんな育ち方をすれば、こんな妙な性格に育つのか。
伯の頭の中で、考えても答えがでそうにない疑問符が飛び交う。
「もっと年上だったら、成人していたらよかったと、私は思っていますよ」
涙の潤んだ瞳は、殺されかけたというのに伯への恐怖も恨みも映していない。ただ慕わしげな色を映しているだけだ。
「今の私はあなたに添えるほど強くない。知っています。分かっているんです。今、ここで引き止めていることが無意味だと。だから、あと一つだけ確認させてください。それさえ知ることができれば、今日は大人しく集落へと帰ります」

まっすぐな強い意思を秘めた瞳を向けられ、伯は無意識に息をのむ。そして、そんな自分に気づいて内心苦く笑った。
「……何 ? 」
内容を問うのは気まぐれだ。
「およそ十五年後。あなたはまた、ここへ来ますか ? 」
意外な問いに、伯は目を見開いた。

それは、長の仕事で伯が次にここを訪れなければならない年だった。
現時点で長を継げる次代が現れていない以上、次の時にも伯はここを訪れることになる。次代が生まれたからといって、すぐに長の仕事を押しつけることは不可能ではないが、色々と問題も多い。
次代さえ生まれれば、長でいる期間は最短で残りはおよそ二十年。それはウイの一族にとって、さほど長い年月ではなく、それくらいであれば待っても苦ではなかった。

「それまでに私は強くなります。あなたの妨げにならないで傍にいられるように。その時の私を見て、もう一度判断してください」
「……僕がもう一度ここに来たとして、その時に君に会う約束なんてする気ないけど ? 」

およそなのできっかり十五年後にまた訪れるわけでもなく、その期間の誤差は一年前後ある。そして、伯がこの場に留まるのは数時間だけだった。
示し合わせていない限り、伯と翼が出会う可能性は非常に低く、伯にはそんな約束をする気が初めからない。
彼の言葉は曖昧で、その内容は実質、否とも取れるものだったというのに――。

「それで構いません。私にはあなたがわかりますから」
「……あ、そう」
にっこりと微笑まれ、自信に満ちた声で告げられた伯は呆れた顔で翼を見る。
「勝手にすれば」
彼が口にできる言葉は、それだけだった。

翼に背を向けて、伯は歩き出す。
ついに待っていた時が訪れた。仕事の開始だ。
引き止めることなく、その場から翼は彼の背に声を掛ける。
「次に会った時には名を教えてください、運命の御方」
その言葉を聞いた瞬間、伯の足取りが乱れた。
「君、絶対に年齢さば読んでいるでしょ」
思わず立ち止まって、伯は後ろを振り返る。
「そんなことはないのですが……年齢など、些末事です。年下だと不都合でもありますか ? 」
コテッと仕草は可愛らしく問われて、伯は言葉に詰まった。

同族でなければ、今の伯の年齢に達することはない。他種族であれば、どうしても年下になる。
だから、年下に問題があるというわけではない。ただ――。
「可愛くない ! 」
外見と中身があまりにも掛け離れた翼の言動に戸惑っているだけ。けれど、それを素直に認めるのは癪だった。
再び背を向けて今度は早足になった伯の姿に、翼は瞬きを繰り返した後、
「あなたに可愛いと思われるのが嫌だと感じる、この気持ちはなんでしょうね」
不思議そうに小さく呟く。
その言葉は、幸か不幸か耳の良い伯にも聞こえた。彼の足取りが再び僅かに乱れたが、今度は立ち止まることも振り返ることもしなかった。

ただ、伯は内心で思う。
あれは天然だ、と。
そして――。
再び見えたくない、と。

とことん調子を狂わされる存在。それでもなぜか無視はできなかった。
それがなぜか、なんて考えたくもない。

伯は複雑な心境を抱えながら、目前に迫る仕事に集中しようとしていた。
そうしようとすること自体がもう、常の自分らしくないと気づかないまま――。





*************************************************************
2012/10/28



ブラウザを閉じてお戻りください


Copyright (C) 2012 SAKAKI All Rights Reserved.