天の審判者 <おまけ>



ずぶ濡れの自分達の姿に顔を見合わせ笑い、スーリャはシリスと共の王宮へと帰った。こっそりと隠れるように裏から戻ったというのに、そこではなぜか今か今かと待ち構えているナイーシャがいた。
ここはスーリャに宛がわれていた私室で、彼女がこの部屋に居るのはおかしい。だが、その点を指摘する者はこの場にはいなかった。
ナイーシャはスーリャの姿を見て笑顔になったものの、二人の恰好を見とがめてすぐに眉をしかめる。
「ずぶ濡れじゃないの。泳ぐにはまだ少し早いわよ。まずは着替えなさい」
傍に控えていたラシャに、スーリャの着替えを手伝うように頼む。
それに慌てたのはスーリャだ。
「いい。自分で着れるから!」
用意周到にも、ラシャの手には真新しい乾いた衣がある。

シリスは彼女から自分の衣を受け取り、そそくさとスーリャを彼女達に任せ、着替えるためにその場から去る。その様はこの場からこれ幸いと逃げ出したように、彼には見えた。
「何を言ってるの。あなたひとりでは着れないでしょう?」
裏切り者、とシリスの背中を恨めしく睨みつけていたスーリャだったが、ナイーシャの説得に当たるために気持ちを入れ替える。
「ある程度なら着れるから大丈夫。無理な部分は後で手伝ってもらうから。とりあえずこの場で裸になるのはちょっと……」
スーリャの衣に手をかけ、手際よく脱がせようとしているラシャの手を何とか押し止めて彼は懇願した。
さすがにこの歳になって、妙齢の女性の前で全裸になるのは遠慮したい。それが服の着替えの手伝いという、なんとも情けない理由では尚更に。
その思いがやっと伝わったのか、ナイーシャが小さく息を吐き出した。
「わかったわ。あちらで着替えていらっしゃい」
対の部屋を指し、衣をスーリャに渡すようラシャに言ったのだった。



「それにしても、あなたが無事で本当によかったわ。あなたがいなくなって三月近く。心配していたのよ」
着替えの終わったスーリャを長椅子に座らせ、向かいに座ったナイーシャが口を開いた。スーリャの隣では、とうに着替えを終えたシリスが座っており、ラシャに入れてもらったお茶を素知らぬ顔で口に運んでいる。
「……三月?」
スーリャは驚き、声を上げた。
「そんなに経っているの?」
隣に座るシリスに答えを求める。彼は真剣な表情でスーリャに頷いた。
「そうだ。あの日、おまえとあの場で別れてから、もうすぐ三月が経つ。見た所どこにも怪我はないようだが、大丈夫か?」
「……怪我なんてどこにもない。俺は健康そのものだ。そもそもそんなに月日が経っているなんて、まったく思ってもいなかったんだから」
困惑もあらわに、スーリャは各々の顔を見回した。そして、自分がずいぶん彼らに心配をかけたことを悟る。

「俺の感覚では、あの日からまだ一日も経ってないんだ」
ぼそりと呟かれた言葉を拾い、シリスが目を見開く。驚いた顔の彼を見つめ、スーリャは困惑のままに口を開いた。
「これは推測だけど―― 俺がいたあの場所はカイナであってカイナじゃない、狭間の空間だったから。もしかしたら戻る時に時間がずれたのかもしれない。……心配をかけて、ごめん」
俯いたスーリャの肩を、シリスはそっと抱き寄せ、
「蒼夜が無事に戻ってきてくれただけでいい。それだけで十分だ」
項垂れるスーリャに言い聞かせるように囁いた。
「そうよ。あなたがこうして無事に戻ってきてくれてうれしいわ。だから、気にしないでいいのよ」
穏やかなやさしい言葉にスーリャが顔を上げれば、正面にはにっこりと笑うナイーシャの顔をあった。その笑みにつられ、スーリャは少しだけ表情を和らげる。

スーリャの変化を機敏に読み取ったナイーシャが笑みを深める。
「あなたのいない間のシリスの様子、知りたくない?」
問いの意図がわからず不思議そうに首を傾げたスーリャに、それほど返事を期待していなかったのか。
ナイーシャが思い出し笑いを浮べながら言葉を続ける。
「ホントに困ったものでね。この子ったら――」
「ナイーシャさん!」
クスクスと笑う声を遮り、シリスが叫んだ。
「あら。スーリャに知られたらまずいことでもあったかしら?」
睨むシリスの視線を真向から受け止め、ナイーシャはからかいを含んだ声でにシリスに問い掛ける。それに顔をしかめ、シリスは憮然とした。

その様子にスーリャは何があったのか、非常に知りたくなったのだが――。
「しょうがない子ね。スーリャに話すのは止めといてあげるわ」
両者の顔を見ながら笑顔のナイーシャは肩を竦め、お茶の注がれたカップに手を伸ばす。

後でね。

シリスの隙をつき、彼女の唇が声なき言葉を紡ぎ、スーリャに向けてこっそりと合図する。スーリャもシリスに気づかれないように小さく頷き、その顔にほんのり笑みを浮かべてみせたのだった。

その時。
部屋の扉がノックされ、応えと共に勢いよくそれが開かれる。そして、そこからスーリャのよく見知った顔が飛び込んできた。
「スーリャが帰ってきたって!」
走ってきたのか、その声は息が弾んでいた。
妊婦がそんなに走って大丈夫かと心配になり、椅子から立ち上がったスーリャの姿を認めたキリアは、彼の元に駆け寄ってその勢いのままに抱きついた。
それをなんとか受け止めたスーリャだったが、その顔は驚愕していた。
スーリャの様子に気づいているのか、いないのか。ギュッと力一杯抱きついて気が済んだらしいキリアが、彼から身を離して今度はその肩をガシッとつかみ、その顔を正面から見据える。
「ちょうどいい時に帰ってきた。明日は俺の婚姻の儀式があるんだ。出てくれるよな? 必ず来てくれよ。ちなみにスーリャは伴侶同伴な。絶対だぞ!」
真剣な、有無を言わさぬ迫力をかもし出しているキリアに逆らえるはずもなく、スーリャは首振り人形のごとく何度もコクコクと無言で頷く。

それで納得したのか。キリアはスーリャの肩から手を離し、
「予定が変わったことを知らせに行かないと。それと――」
顎に手を当てて、独り何事かブツブツと呟く。スーリャには意味のわからないことを呟き、一通り考えがまとまったのか。
キリアは顔を上げ、二人のやり取りを見守っていた面々を見回し、
「突然、失礼しました。陛下。そういうことなので、明日はスーリャと共に何がなんでも来てください。ただし、変装して。例のアレはありがたく使わさせてもらいます。―― 明日の準備があるので、これにて失礼します。じゃあ、スーリャ。明日な」
言いたいことだけ告げて、キリアは来たとき同様、慌しく去っていった。
その様はまるで嵐のよう。

スーリャは物問いたげに室内にいる面々の顔を見回した。各々が意味ありげな笑みを浮かべており、明日、そこで何があるか知っているらしいことがうかがえる。だが、誰もそれをスーリャに説明するつもりはないらしい……。
スーリャはひとり、腑に落ちないまま首を傾げたのだった。



翌日。
スーリャの姿は街中に建てられた神殿の中にあった。
もちろんその隣にはシリスもいる。
その姿はキリアの忠告通り、髪も瞳も目立たない薄茶色へと変えられ、顔を隠すように伊達メガネがされていた。
それでもシリスの存在が損なわれることはない。スーリャは見慣れないシリスの装いに戸惑いつつも、正装を身につけたその姿に見惚れていた。
そんなスーリャの様子を横目で観察しつつ、シリスもまた性別を感じさせない正装姿の己の伴侶に見惚れていた。ただし、そんな彼の姿に見惚れているのが自分だけではないことにも気づいていたので、周りを牽制することも忘れていなかったが――。

そっとスーリャの肩に手を置き、彼を自分の方へと引き寄せる。虚を突かれたように目を見張るスーリャに、シリスは苦笑した。
「悪い虫がついたら困るからな」
半ば本気でシリスがそう囁けば、スーリャがいぶかしげな顔をする。
「そんなものつくわけないだろ?」
呆れたようにスーリャは真向からシリスの言葉を否定し、
「だいたい俺じゃなくてあんたの方が……」
途中まで言いかけ、顔をしかめて口を噤んだ。
スーリャがその先に何を言おうとしたか思い当たって、シリスは心中で笑う。
自分に向けられた視線には気づかなくても、シリスに向けられた視線には気づいていたようだ。それらに嫉妬していたことも、今の言葉でわかった。

「なんだ? 焼いたのか?」
そのことをうれしく思いつつ、からかい混じりにシリスが訊けば、
「そんなわけないだろ!」
打てば響く太鼓のように即座に答えが返ってくる。言葉では否定するものの、スーリャの頬はかすかに赤い。
それを見止め、シリスはこらえきれなかった笑みを顔に浮かべ、わざとスーリャの耳元で囁いた。

「気にするな。俺は蒼夜しか見えていない」

その言葉にスーリャは硬直し、しばし絶句した後。
「……恥ずかしい奴」
ぼそりと小さく呟いたのだった。その頬も耳も赤く染まっている。
恥ずかしさを誤魔化すように、彼は不機嫌そうにほんの少しだけ唇をつぼめる。
シリスが小さく笑う。
このままその唇を奪ってしまいたい。そんな衝動がわき起こる。
だが、それをこの場で実行すれば彼は逃走してしまうだろう。だから、少しだけ残念に思いつつも、スーリャに触れたくてシリスはそっとその頭を撫でたのだった。



しばらくして始まった式は、厳かな雰囲気をたたえ、静かに何事もなく進んだ。
ある程度の基本は世界を越えても共通らしい。
祭壇らしき場所の前に神官らしき人が立ち、その人と向かい合うように婚姻を結ぶ二人が並んで立つ。そして、神に永遠の愛を誓う。

儀式も終盤になり、そろそろ終わりかと思われた時。
辺りを奇妙な沈黙が覆った。
なぜか多くの視線が花婿花嫁ではなく、自分達に向けられているような気がする。そして、祭壇からこちらを振り返ったキリアが、花嫁に似つかわしくないニヤリとした笑みを浮べ、自分を手招きしたことにスーリャは混乱したのだった。
なぜこの場のこのタイミングでキリアに呼ばれるのだろう。
しかも、あの顔は面白がって、いる?
キリアが浮かべた笑みは、スーリャをからかう時に浮かる笑みと酷似していた。
戸惑うスーリャをうながすように、シリスが彼の背を抱くようにして祭壇の方へと足を踏み出す。仕方なくスーリャもまた足を動かす。

キリアの前まで移動したスーリャは困惑もあらわな顔をして、キリアとシリスの顔を交互に見た。けれど、そんな彼の様子を構いもせずにことは進み――。

「花嫁、キリア。汝の首にありし青の聖石を次なる花嫁へ」

青の聖石?
その単語をどこかで聞いたか、読んだか。
知っているような気がしたが、思い出せずにスーリャは内心唸る。神官の言葉と共に、キリアが自分の首にかけられた首飾りを外し、彼の首にかけた。
「これ、簡単に二つに分かれるようになっているから。神官の言葉を合図に、ひとつを陛下に」
そっとスーリャ以外には聞こえないくらいの声で告げ、キリアが離れていく。
キリアの言葉通り、それは確かに二つに分かれるようになっていた。外れる方はどうやら指輪になっているようだ。
二つに分かれる……指輪?
そこでやっと何かが噛みあった気がした。

「青の聖石より分かたれし縁の輪を、汝が選びし者へ」

答えを見つけたスーリャが困惑して俯いた。
多くの視線が自分に集まっていることを感じる。これでは自分が結婚するみたいだと頭の片隅で思い、笑い飛ばすことに失敗した。
少しだけためらった後、スーリャは指輪を外し、それを差し出されたシリスの左薬指へはめたのだった。

「ここに新たなる縁を結び、神の御前に示す」

一連の動作が無事に済んだことを確認した神官が厳かにそう告げれば、それまで沈黙を保っていた人々から拍手と喝采が上がった。スーリャは困惑したまま、それらを受け止めたのだった。



「それで? 説明して欲しいんだけど……」
本日の主役同様におめでとうの言葉を次々にかけてくる人々をかわしつつ、シリスと共になんとか神殿を抜け出し、王宮に宛がわれた自室に戻り、ほっと一息ついてからスーリャは彼に問い掛けた。
「何をだ?」
スーリャの聞きたいことなどわかっているだろうに、シリスはすっとぼけた返事をする。彼の顔がピクリと引きつる。
「あの、最後の、儀式のことだよ!」
長椅子に座りくつろぐシリスを立ったまま正面から見下ろし、スーリャはその顔を睨みつける。

「……ああ、あれか」
わざとらしく返事を伸ばすシリスに、スーリャはイラつきながらも無言で答えを待った。シリスは彼の頬に手を伸ばしてひと撫でし、その顔に鷹揚な笑みを浮かべる。
「あれは一種の婚約お披露目みたいなもの、だな。やるやらないは個人差があるが、今回は既成事実もかねてな。花嫁に取り持ってもらえることはあまりない幸運だぞ。よかったな」
シリスはなんでもないことのように、飄々と言ってのけた。絶句するスーリャが抵抗しないのを良いことに、その身体を引き寄せ、自分の膝の上に横抱きにする。
「とりあえず神の前で誓われたことは、外野がどうこう言おうとそうそう覆るものでもない。特にあそこはルー・ディナとメイ・ディクスを祭った神殿だからな。そういうことだから、晴れてスーリャは俺の婚約者になったというわけだ。証人はあの場にいたすべての人間と神、か」
ニヤリと人の悪い笑みを浮かべたシリスに、スーリャが深く息を吐き出す。

青の聖石。
それはこの国で古くから使われる婚約の証だ。たまたま読んだ文献に載っていて知った名前だったが、自分には関係ないと思いとすっかり忘れていた。

スーリャは己の首にかけられた首飾りを手に取り、見つめる。
「なんで昨日、教えてくれなかったんだ?」
シリスにもたれ、スーリャがふてくされたように問う。
「知っていたら、蒼夜はこのことを了承したか? しなかっただろう?」
驚いて顔を上げれば、予想とは違い真剣な顔をしたシリスがいた。スーリャの心の内すべてを見通すような金色の瞳が、静かな光をたたえている。
それを少しだけ恐いと思いつつも、スーリャはその瞳から目が離せなかった。
「蒼夜が思うほど俺はやさしくないし、強くもない。形がすべてではないが、それでも確かな形でおまえを縛るものが欲しかった。そう言ったら怒るか?」

ふいとそらされた瞳に、浮んだのは自嘲の笑み。
スーリャはこの時やっと三月という時の流れを感じ、その月日がシリスに与えた不安という名の傷を知った。

シリスの顔を自分の方に向かせて、スーリャは安心させるように微笑みかける。
「確かに昨日の段階で知っていたら、たぶん俺は断わっていたよ。俺は男だから、さ。正直、あんたとの結婚なんて考えたこともなかった。俺はあんたの傍にずっと居るつもりだったから、それでいいと思ってたんだ。でも――」
少しだけ目を伏せ、シリスの左手を取り、薬指で主張する小さな青い石のついた指輪をそっと撫でる。
「嫌じゃない。この状態も悪くない。そう思える」
恥じらいを含んだ声と、無意識に浮かぶ幸せの笑み。

自分が結婚するみたいだと思った時、一瞬、泣きたくなった。
この指輪を左薬指にはめたのは、スーリャの主張だ。この儀式の指輪をどの指にするかは決まっていない。
ただ、元の世界で結婚指輪は左薬指にはめるものだった。だから――。
たとえそのことを誰も知らなくても、これはシリスが自分のモノだという、ささやかな自分の意思表示だ。

「……うれしいと思ったんだ」

左手を胸に抱えて、顔を見られないようにスーリャはコテンとシリスの胸に自分の頭を押し付ける。

形ある物を望んだのは、自分も一緒。

小さな彼の呟きはシリスに届き、一瞬目を見開いた彼はその顔に同じく幸せに彩られた笑みを浮かべたのだった。





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ここまで御足労いただきありがとうございます。本編終了、ほぼ直後からの二人の様子を<おまけ>としてここでこっそり掲載です。
2007/04/07
加筆修正 2012/02/06



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