紅い月夜の月見酒



なんとなく目が冴えて眠れず、スーリャは部屋を出た。
このままベッドでゴロゴロしているより、散歩でもして気分転換すれば眠れるかもしれないと思ったからだ。
少し距離はあるが内庭にでも行こうと廊下を歩いていると、ふと目に付く少しだけ開いている扉があった。シリスの執務室だ。
まだ仕事をしているのかと訝しげに思ってそっと覗き込むと、中は薄暗く、明かりはついていない。ただ単に閉め忘れただけかとスーリャが首を傾げ、目的地に向かって足を運びかけたその時。

「こんな時間に何か用か?」

誰もいないと思っていた室内から声を掛けられ、彼はびくっと肩を震わせる。
「……明かりもつけないで何やってんだよ」
よく見れば、応接用に置かれた長椅子にシリスが腰掛けていた。
「月見をしていた」
ユラユラと手に持ったグラスを揺らし、シリスが朗らかに答える。
彼の側まで行き、スーリャは窓の外を見た。
確かにそこには見事な望月が見えたのだが。
「なんだ、あの月――」
紅く染まった月に唖然とする。
いつもは白っぽいと感じる月が、見事に紅色に染まっていた。

驚くスーリャの顔を不思議そうに見ていたシリスが、しばらくして彼の言いたいことを悟り、笑った。
「スーリャがあの月を見るのは初めてだったな。あれは年に一度だけなる『紅月』だ。同じく年に一度だけなる『蒼月』もある。その時は月が蒼く染まるがな。半年ごとに一度だけ月が染まるんだ」
グラスの中の液体を喉に流し込み、シリスは月を見上げる。
「何か意味があるの?」
やっと驚きから脱したスーリャがシリスを見た。
「さあな。ルー・ディナの考えることなど、俺にはわからん。スーリャの方が知ってるんじゃないか?」
視線に気づき、シリスが面白そうな表情でスーリャを見つめ返す。
「俺が知るわけないだろ」
それにブスッと言い返して、スーリャは遠慮なくシリスの隣にドカッと座り込む。

「何、飲んでるの?」
物珍しそうにグラスの中で揺れる琥珀色の液体をスーリャが指差す。
「これか。酒だが……飲むか?」
そう訊いたのは、シリスのちょっとした悪戯心だったのだが。
「飲む。ちょうだい」
スーリャは手を差し出し、素直に頷く。その顔には満面の笑みが浮かんでいた。

「シリスがお酒を飲むの、俺、初めて見るよ。てっきり飲めないのかと思ってた」
別のグラスに酒を注いでもらい、遠慮なくそれを平然と口に運びながらスーリャは言った。
「まあ、な。普段はまったく飲まないんだが、たまにどうしても飲みたくなるんだ。無くて困る物ではないがな」
苦笑するシリスの顔は酒のせいか、普段よりだいぶ赤い。
「酒癖が悪いとか?」
今の様子から違うなとは思いつつ、スーリャが訊けば、
「いいや。そうじゃないんだが――」
否定するが、その先の言葉をシリスは濁した。
彼はスーリャの視線を微妙に避け、手に持ったグラスをどことなく気まずげに小さく揺らす。
その様子にスーリャはピンとくるものがあった。

「あんた、それ何杯目?」
「……まだ、一杯目だ」

その瞬間、スーリャの中で予想は確信に変わった。
「わかった。弱いんだ。この酒、そんなに度数も高くなさそうなのに、もうその状態だもんね」
鬼の首でも取ったかのようにニヤリと笑うスーリャに、
「…………弱くて、悪かったな」
シリスがふてくされる。
「俺だって一国の王がそれじゃあまずいとこれでも改善しようとしたんだ」
職務上、酒の付き合いも発生する。勧められて、断れない場合もある。
酒は嫌いではなく、どちらかといえば好きな方なのだ。
けれど――。
「無駄骨だったんだ?」
声を立ててクスクス笑い出したスーリャに、シリスが渋面を作る。
事実、酒に弱い体質は改善されることはなかった。

スーリャはもう二杯目を飲み干し、三杯目に突入している。だが、彼の態度に酔った様子は見られなかった。
「そういうおまえは随分強そうだな」
つまみは無く、酒だけをこの短時間にそれだけ飲んで平然としているのだからそれなりのものなのだろう。
「たぶん強いと思うよ。記憶はないけど、なんとなくわかる」
ケロリと答えたスーリャに、シリスはため息をつく。
「子供のくせにザルか」
それは小さな呟きだったが、隣に居たスーリャには十分だった。
「大人なのに、あんたは下戸だよな」
お返しとばかりに彼は言い返す。
それに反発するようにシリスがグラスの中の残り、まだ半分は残っている酒をぐいっと一気にあおった。

「シリス!? そんな急に飲んだらまずい!!」

彼の暴挙にスーリャが叫ぶ。
彼がこの場に来るまで、酒に弱いシリスは月見をしながら自分の許容量を考えて、ゆっくりチビチビと飲んでいたのだろう。
彼自身、自分が酒に弱い自覚はあるのだ。それなのに急にこんな一気飲みをすれば、いっそう酒の回りが早くなる。
シリスは勢いのまま、グラスの中身をすべて飲み干し、

「俺は下戸じゃない」

どことなく拗ねたような呟いた。金色の瞳が緩やかに閉じ、その身体が傾ぐ。
手に持っていたグラスが床の上に広げられた柔らかな織物の上に落ちて転がった。
「……まったく。これのどこが下戸じゃないんだよ」
力を失ったシリスの身体をなんとか支え、ゆっくり長椅子に横たわらせながらスーリャは呟く。
「大人気ない奴」
言葉とは裏腹に、静かに寝息を立てているシリスを見る瞳は穏やかでやさしい。少し彼の様子を観察していたが、単に眠りに落ちただけのようだった。

織物の上に落ちたグラスを拾い、対の間から掛け布を持ってきて、スーリャはシリスにそっと掛ける。
「明日はたぶん、二日酔いだよなぁ」
彼の寝顔を見ながら、スーリャがニヤリと笑う。自分のグラスに残った酒をあおり、彼は窓の外を見た。
変わることなく紅い月が静かに夜の闇を照らしている。
「紅い月の理由か」
ポツリと呟き、
「ごちそうさま」
コツンとグラスをテーブルに置いた。

「おやすみ。いい夢を」
眠るシリスの顔を上から覗き込み、起きないことを確認してから、そっと顔を近づける。
一瞬だけ重なった唇と唇。
微かなぬくもりだけを残し、無意識の笑みを浮かべたままスーリャはその場を離れた。
「俺も毒されてるよなぁ、まったく」
扉の閉まる音に重なるように小さく呟かれた言葉は、静寂にのみ込まれ誰の耳にも届かない。

深い眠りの底にいるシリスは知らない。
スーリャからされた初めての接吻。

その事実を知るのは、スーリャ自身と紅い月のみ。





*************************************************************
だいたい「天の審判者」43〜44話の間くらい? この話を書いた段階ではそこまで本編ができていなかったため、ちょっと曖昧です(苦笑)
2006/06/13
修正 2012/01/30



novel


Copyright (C) 2006-2012 SAKAKI All Rights Reserved.