バレンタイン戦線 |
夕食の後、烙の隣に座った聖は鞄からいそいそと何かの小箱を取り出す。 ラッピングされたそれの包みを開け、現れた物を見て彼はうれしそうに顔を綻ばせた。 小箱の中から漂う甘ったるい匂いに、烙の顔が微妙なものに変わる。彼にとっては、あまり好ましい匂いではなかったのだ。 「チョコレート、だな」 ボソリと呟く烙の変化に気づくことなく、聖はそれをひとつ摘まむ。 「そう。義理チョコ、もらったんだ」 甘い物が大好きな聖は躊躇いもなくチョコレートを口に放り込み、口の中で転がし蕩けて消えたそれに満面の笑みを浮かべる。 烙はその瞬間、微かにチョコレート以外の香りを感じ取り、わずかに顔色を変えた。けれど、聖はそのことにも気づかず、二粒目を口に放り込んで幸せそうにしている。 烙が懸念したこと。それは――チョコレートに含まれた酒だった。 だが、こんな微量の酒気ではさすがに聖も酔わないだろうと思い直す。 聖の様子からも大丈夫だと判断した烙は、 「誰にもらった?」 それよりも重要なことを問い質した。 「職場のお姉さま方に」 甘い物を摂取して、大変機嫌の良い聖の口は軽い。だが、隣の不穏な気配に気づいて、彼はすぐに己の不注意に気づいた。 「今日はそういう日だって、あんた、知らないのか? 義理だって言っただろ? お姉さま方って言ったって、皆、伴侶持ち。だから、義理。健全な職場だけの付き合い」 妙な所で狭量な烙の、その矛先が彼女達に向かってしまったら――考えるだけで恐ろしい。 その不吉な想像を振り払うように、聖はもう一粒チョコレートを口に放り込む。 「バレンタイン、か」 烙の呟きが多少忌々しさを含んでいても、それは仕方ないというもの。 だが、聖の食べている物を取り上げることはしない。こうして幸せそうに笑っている彼の顔を見るのは、烙にとっても喜ばしいことではあるからだ。 そうして聖はその箱に入っていたすべてのチョコレートを食べてしまった。空の箱を前にして、物足りなそうに唇を尖らせて烙の袖を引っ張る。 聖の隣で酒の入ったグラスを傾けていた烙は、その珍しい動作に聖の顔を見て――己の失敗を悟った。 「酔っているな ? 」 「なにが ? 」 コテンと首が傾げられる。不思議そうな表情を浮かべている聖の瞳はとろんとしており、熱に潤んでいた。 聖の様子を観察していた烙の視線の先で、彼はもそもそと動き、烙の膝の上へと乗り上げる。 「甘いのない。もっと、ちょうだい」 舌足らずな言葉で催促し、烙をじっと見つめる聖。 どう見ても酔っ払いだった。 まさか、たったあれだけの酒気で酔うとは思っていなかった。 どれだけ弱いのかと烙は小さく息を吐き出し、己のざわめく胸中を宥める。 酔った聖のまとう色香はなかなかに毒気が強い。だが、どうせ彼はすぐに寝てしまうのだ。事を進めても、反応がないのは面白味に欠ける。 ぺろりと唇を舐める赤い舌が烙を誘うが、彼はその衝動もため息に変えて吐き出した。 「さっさと寝ろ」 冷たくあしらった烙に、聖がふくれっ面になる。 「い、や。ちょうだい」 聞き分けのない子供のように駄々をこねて、烙の唇に己のそれを重ね合わせる。侵入してきた舌がチョコレートの甘ったるさを烙に伝え、彼の顔が少しだけ不愉快そうに歪んだ。 だが、嫌いなその甘さよりもなお甘く、おいしく感じる聖の口腔に、止めていた箍が少しだけ外れた烙はそれを本能のままに貪る。 頭の片隅で、そういえばいつぞやもこうして聖に襲われたことがあったな、と思う。あの時の彼も酒に酔っていた。 そうして気の済むまで彼を味わっていた烙だったが、案の定、気がつけば聖は眠っていた。 腕の中でくったりと力の抜けた身体を烙に預けて眠る聖の安らかな顔に、彼は高ぶっていた気分を落ち着かせるために深く息を吐き出す。そして、彼を横抱きにして立ち上がった。 「やはりタチが悪い」 烙は小さく呟き、ため息を吐く。 どうせ今回のことも覚えていないのだ。 酔った聖は自分の感情に素直で、彼のまとう雰囲気に色香が混じる。 その豹変は確かに楽しい。だが、煽られて放置されるこちらの立場としては、手に負えない。 己の寝室にあるベッドへと聖を寝かせ、烙はその隣に滑り込む。首の下に腕を差し入れ、抱き寄せて抱き枕のように寄り添えば、自然と自分が心地良いように移動した聖が烙の肩口に顔を埋めた。 ……明日の朝、自分の状態に慌てふためけば良い。 烙は少々意地悪げにそう考え、目を閉じる。そうすれば、よりいっそう触れた場所から伝わる温もりが際立った。 それは烙に安らぎをもたらし、腕の中にいる存在がやっと見つけた得難い者だと再確認できる。 そうして烙も聖の寝息につられるように安息の眠りへと落ちていった。 翌朝、先に目覚めていた烙の腕の中で、聖が混乱状態で彼の予想通りの反応を示すのはこれまた別の話である。 |
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