トリック オア トリート ?



その建物はいつも部分的に誰にでも公開されているのだけれど、普段は緊張感で包まれている。一般人は用がなければ立ち寄ることもない。
そんな街の兵士の詰め所全体に、なぜか今日は甘いにおいが漂っていた。
否。
漂うというような生易しいものではなく、胸焼けしそうなほど甘いにおいが充満していたというべきだろう。
普段はピシッとしている兵達も、今日はくったりと力無い。
その顔はどれもこれもしかめ面。
今日ばかりは、詰め所を離れられない人員以外、兵達も必要以上に建物内に入ろうとしない。その原因は――。

甘いにおいの中心地。

詰め所の厨房で、一人の青年がそれはそれは楽しげに焼き菓子を作っていた。
テーブルの上には、焼き上がった菓子が皿の上に山のように乗っていたが、まだ足りないのか。青年の手にはボールがあり、彼は中の物を手際よくかき混ぜている最中だった。
「……いい加減にしろ」
後ろから呻くような声がして、青年が振り返る。
そして、相手の姿を認めるとにっこりと笑いかけた。
「ちょうど良い所に来たわね。そこの皿に乗っている焼き菓子を小分けにして、袋に入れてくれない?」

青年の口から飛び出てきたのは、なぜか女言葉。
女らしいとはとても言えない、どちらかといえば精悍な男らしい容姿を持つ彼から発せられる言葉としては、とても違和感のあるものだったが、言った方も言われた方もそんなことは今更気にしない。
これが彼らにとっての普通なのだ。

「兵士どもが使い物にならなくなるぞ」
鼻と口を布で覆い、眉間に皺を寄せた紅眼を持つ青年が入り口に立ったまま、ひどく迷惑そうに菓子を作る青年を見ていた。
「そんな軟弱な奴は、この詰め所に残っていないと思うけど……もしいたとしたら、私直々に鍛え直してあげるわよ」
笑い飛ばし、青年はオーブンの中で焼いていた菓子を取り出す。こんがりときれいに焼けたそれらを満足げに見つめ、新たに出した皿の上に乗せた。

「とりあえず手伝ってちょうだい。誰も来ないから、ちょっと困ってたのよ。あんたが来てくれて助かったわ」
まったく断られるとは思っていない態度に、紅眼の青年の眉間の皺が深くなる。
「俺はお前の部下じゃない」
不機嫌そうな声に、菓子のタネを新たに焼くために、型に入れる作業をしていた青年が肩を竦めた。
「まだ、ね。私はあんたを落とすつもりでいるけど。ま、それはとりあえずいいわ。私の部下のことを心配してくれるなら、尚更手伝ってくれてもいいんじゃないかしら? 封をしてしまえばにおいも軽減すると思うんだけど、私、まだ手が空かないのよね」

じっと見つめられ、紅眼の青年が仕方ないとでも言いたげにため息をついた。
テーブルの傍まで来て、そこに用意してあった小袋に焼き菓子を詰めて封をしていく。ひどく不本意そうな表情をしているわりに、その手付きは丁寧だ。
「……今、作っている物で終りにしろ」
ぼそりと呟かれた言葉に、
「そうね。そうするわ」
微笑んで、青年は最後の菓子をオーブンに入れたのだった。



すべての作業を終了した厨房には焼き菓子の甘いにおいが残っていたが、山とあった焼き菓子は各兵達がそれぞれ持って街に繰り出したので今はもうない。
厨房から繋がる食堂ではうんざりとした表情を隠しもせずに紅眼の青年が椅子に腰掛け、それを楽しげに見下ろしている先ほどまで菓子を焼いていた青年の姿があった。
「お疲れさま。あんたが来てくれて、ほんとに助かったわ」
言葉と一緒に差し出されたカップには、湯気の立つ熱いお茶が入っていた。それを一瞬ためらった後、手に取った紅眼の青年は一口だけ口に含む。
甘いにおいを払拭するような風味に、自然と彼の口から深い息が吐き出された。

「合言葉は?」

唐突に意味不明なことを言われて、紅眼の青年が訝しげに見上げる。
「今日、子供達が言う合言葉よ」
笑みを含んだ声にいっそう不審な思いは増したが、自分に向けられる瞳が引かない意思を宿していることを見て取り、紅眼の青年は諦めを含んだため息を吐き出した。
けして長い付き合いではない。
だが、こういう状態の彼の意思を覆すのがかなり面倒であることは知っていた。 そのためには手段を選ばないことも――。
現に、自分かここにいる原因の半分はそのせいなのである。半分は興味本位の気まぐれなので、お互いさまといえばそれまでだが。
本気で拒絶して、力づくで抵抗するなら話は別だろうが、その場合、確実にお互い無傷ではいられない。
そして、今回はそこまでして拒絶することでもなかった。そんな面倒なことをするよりも、自分が折れた方がよほど楽だ。

「トリック オア トリート」

紅眼の青年が求められた答えを棒読みすれば、いったいどこに隠し持っていたのか。差し出された小袋に、彼は顔を引きつらせた。
「……なんの真似だ?」
唸るような呟きに、答える声は明るい。
「あんたの分よ」
悪気のまったく見えないソレに、ふつふつとした怒りが込み上げたが。
「受け取らないなら、無理矢理食べさすわよ」
にやりと笑いそう宣言した青年の言葉には本気の色しかなく、それを感じ取った紅眼の青年は力づくで拒絶するべきか本気で迷った。
「甘味を抑えた、特別製よ」
その迷いを感じ取ったらしく、焼き菓子を差し出した青年が言葉を付け足す。

しばらく焼き菓子の入った小袋を睨むように見ていた紅眼の青年だったが、深く息を吐き出し、結局は小袋を受け取った。
ひどく嫌そうに小袋を摘むその姿を、渡した青年はニコニコとそれは楽しそうな笑みを浮かべて見ていたのだった。





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2008/10/28
修正 2012/02/01



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