trick or treat ? |
コンコンと執務室の扉を叩く音にフィルズは応えを返し、入ってくるように促した。 こんな遅い時間に皇帝の執務室を訪れる人間など一人しかいない。 誰が来たかなど顔を見なくともわかった。 だから、扉を開けてその人物が入ってきた後も、彼は顔を上げずに書類を睨みつけていたのだが――。 「trick or treat ?」 なんの前触れもなく聞こえてきた奇妙な単語の羅列に、一瞬フィルズの思考は固まった。だが、すぐに我に返り、彼の頭の中で様々な思いが駆け巡る。 「…………新手の合言葉か何かか?」 しばし沈黙した後、フィルズはひどく苦い物を飲み込んだような顔で書類から目を離し、やっと訪問者を見た。 その頭からは、今まで処理していた難儀な問題など完全に吹き飛んでいた。 一見いつもと変わりないように見えるのに、目の前に立つレキシスからはどことなく得体のしれない空気を感じる。 それにフィルズの背筋がザワリと震えた。 「違いますよ。最近、街で流行っているモノです。ジーン王国から流れてきたモノみたいですね」 にこやかな笑みを浮かべるレキシスは、やはりいつもと同じように見える。 見えるのだが、本能的な勘がフィルズに警告を出していた。 それは時が経つごとに増していく気がするのだが、何がどうそうなのかが自分でもわからない。 内心首を捻るも、わからないものはどうしようもない。とりあえずそのことは脇におき、フィルズはレキシスの言葉を考えた。 「……ああ。確か王妃が持ち込んだ行事だったか」 少し前に別の家臣から話は聞いていた。納得してフィルズが頷いていると、 「ええ。―― ですから、trick or treat ?」 レキシスが再度、同じ言葉を言った。 フィルズは言葉の意味を思い出そうと思考を巡らせる。 確か――。 見つけた答えに、フィルズは自分でも血の気が引いていくのがわかった。 その様子をレキシスは変わらず笑顔のまま見つめている。急かすこともせずに、彼の返答を無言で待っていた。 「…………俺はお前と違って菓子なんか持ってない」 沈黙に耐えられず、視線を微妙にそらしてフィルズはぼぞりと呟いた。 「そうですか。それでは――」 満面の笑みを浮かべたレキシスに、フィルズは思わず椅子に座っていることも忘れ、後退さろうとして――。 案の定、バランスを崩した彼を、レキシスが机越しに身を乗り出して引き戻す。 なんとか倒れずに済んだことに安堵して、二人は向かい合って深く安堵の息を吐いたのだが。 フィルズの代わりに机に積まれていた書類が床に散乱していることに気づき、二人は深い深いため息をついたのだった。 「この、確信犯め……」 一緒になって書類を拾い集める中、フィルズは非難がましく言った。 あからさまなほどこちらを見ようとしないで書類集めをしている彼の姿に、レキシスは手を止め苦笑する。 「書類が崩れたことは予想の範疇外ですが―― あなたの言いたいことはそうではないでしょうね」 一瞬、動きを止め、けれど、また動き出したフィルズの手をレキシスが掴む。 「甘い物の嫌いなあなたが菓子を持っているなんて、初めから思っていませんでしたよ」 しれっと肯定した彼の手を振り払い、フィルズが顔を上げる。非難を宿すその瞳が、レキシスをまっすぐに見ていた。 「……そろそろ限界なんです」 艶やかに微笑み、レキシスがフィルズの耳元に囁く。熱をもった囁きと素早く盗むように触れていった感触に、フィルズの背筋をぞくりとしたモノが駆け抜けていった。 怯んだのは一瞬。 けれど、レキシスはその隙を逃すようなことはしなかった。彼はフィルズを腕の中に閉じ込め、情欲を含んだ眼差しを向ける。 フィルズの視線はレキシスの瞳に絡み取られ、 「私のことも構ってください」 少し掠れた囁きが逃げようとしていた心を熱で覆っていく。 重なった唇は熱く、奪うがごとく性急で。 フィルズはここにきてやっと気づいたのだった。 ずいぶんと久しぶりに触れた熱だということに――。 餓えていた己自身に――。 それは何よりも甘美な、逃れることのできない誘惑。 |
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